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74歳急死…門田博光の「40歳で44本塁打125打点MVP」「ガラガラな二軍で衝撃ライナー弾」を見た〈アキレス腱断裂も王・野村に次ぐ567発〉 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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posted2023/01/25 17:15

74歳急死…門田博光の「40歳で44本塁打125打点MVP」「ガラガラな二軍で衝撃ライナー弾」を見た〈アキレス腱断裂も王・野村に次ぐ567発〉<Number Web> photograph by Sports Graphic Number

南海ホークス時代の門田博光。身長170センチながらホームランを量産する姿を、往年のパ・リーグファンは覚えているだろう

 門田は79年9月7日、平和台球場でのロッテ戦で代打で一軍に復帰している。メディアは「復帰は早すぎる」と書いたが、この年の南海では新井宏昌(.358/2位)、片平晋作(.329/5位)、カルロス・メイ(.307/11位)、河埜敬幸(.300/13位)と4人の3割打者が出ていた。忘れられては困る、と復帰を急いだのだろう。

大怪我前と復帰後の成績を比較すると興味深い

 大怪我から復帰して以降、門田は長距離打者に変貌した。その前後の成績を比較する。

<1970~79年(10シーズン)>
1091試合3963打1151安181本664点
率.290長打率.485 OPS.839
<1980~92年(13シーズン)>
1480試合4905打1415安386本1014点
率.288長打率.564 OPS.961

 復活後の門田は背番号を「27」から「44」、さらに「60」と変えている。1983年に「60」に変更したときには「60本塁打を目指す」といった。ビッグマウスではなく、本当にそれくらい打つのではないかという迫力があった。

 そして1979年以降、門田はほぼ指名打者一本になった。若い頃は守備でも魅せた外野手で、3回ベストナインになっているが、DHとしても4回選出されている。

 門田は30歳を超えるころからどっしりとした体形になっていった。当時は奈良市に住んでいて、ホームゲームでは(南海の選手だが)近鉄特急で通勤していた。筆者は近鉄難波駅の改札で何度も門田を見かけた。濃紺のスーツに身を包んだ門田は精悍で、黒光りする機関車のようだった。地下街をのっしのっしと歩いて大阪球場まで向かう門田の後をついていったこともある。

長嶋一茂が話題になる中で、門田vs秋山の本塁打王争いも

 冒頭の1988年に戻ろう。

 この年の南海は開幕から7連敗。「南海やっても勝てません」とスポーツ紙で揶揄されたが、40歳の門田博光はただ一人元気。5月22日の秋田での近鉄戦で2本塁打を打って、尊敬する長嶋茂雄の444本を抜く445本塁打を記録する。6月12日の新潟での近鉄戦で16号を打って史上9人目の450本塁打、8月19日東京ドームの日本ハム戦で両リーグ通じての30号一番乗り。さらに40歳としては王貞治に次ぐ2人目の30本塁打を記録した。

 この年、セ・リーグでは前年ドラフト1位でヤクルトに入った長嶋一茂がにぎやかな話題を振りまいていたが、渋い門田の話題がじわじわと全国区になっていった。

【次ページ】 35号を放った門田は「世界記録」と書き立てられた

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