酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
74歳急死…門田博光の「40歳で44本塁打125打点MVP」「ガラガラな二軍で衝撃ライナー弾」を見た〈アキレス腱断裂も王・野村に次ぐ567発〉
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph bySports Graphic Number
posted2023/01/25 17:15
南海ホークス時代の門田博光。身長170センチながらホームランを量産する姿を、往年のパ・リーグファンは覚えているだろう
ブルーのユニフォームの門田も何試合か見たが、何か見捨てられたような気持ちがしたものである。しかし門田はオリックスでの2シーズンで33本、31本の本塁打を記録している。これも驚異的だ。1991年、43歳の門田は福岡ダイエーホークスに移籍し翌年、44歳でバットを擱いた。この年、オリックスではイチロー(当時、鈴木一朗)がデビューしている。
通算567本塁打、1678打点は史上3位、4688塁打は史上4位である。
関西独立リーグの監督時代に見た“激しい闘争心”
引退後はテレビやラジオで解説者を務める。甲高い特徴的な声だったが、解説する試合の多くは阪神戦。南海も阪急もすでになく、2004年シーズンをもって近鉄バファローズが消滅。昭和のパ・リーグを知る人物として寂しい思いをしたのではないか。
2011年6月、関西独立リーグの球団、大阪ホークスドリームは総監督の門田博光が監督になって現場の采配をとると発表した。前監督が不祥事で辞任したためだ。大阪市住之江区の球場は20人ほどしかお客が入っていなかったが、門田は一塁側で選手に打撃を教えていた。びっくりするほど小さくて、身体もしなびていた。
相手チームはマック鈴木率いる神戸サンズだったが、失策が多いお粗末な試合をしてホークスドリームは負けた。帰り際にロッカールームの横を通ると「こんな野球しかでけへんのやったら、やめてまえ!」という大きな声が聞こえた。門田の激しい闘争心を垣間見た気がした。
何度かやり取りをしたことはあったが、一度じっくり話がしたかった。
取材もそうだが、それ以上に――あれほど夢中になった1988年の個人的な思い出を話して、一ファンとしてお礼が言いたかった。
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