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“平成のKOキング”坂本博之はなぜ畑山隆則に敗れ、何を学んだのか?「自分を怪物だと思っていた」22年前、伝説の日本人対決の真実 

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田中耕

田中耕Koh Tanaka

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posted2022/12/16 17:00

“平成のKOキング”坂本博之はなぜ畑山隆則に敗れ、何を学んだのか?「自分を怪物だと思っていた」22年前、伝説の日本人対決の真実<Number Web> photograph by Koh Tanaka

2000年、WBA世界ライト級タイトルマッチの調印式。坂本博之(右)が王者・畑山隆則に挑んだ一戦は、日本ボクシング史に残る名勝負となった

畑山隆則との「伝説の日本人対決」に至るまで

 坂本博之といえば、ボクシングファンなら誰しもが鮮明に記憶している試合がある。2000年10月11日、横浜アリーナで行われたWBA世界ライト級王者・畑山隆則との一戦だ。同年の年間最高試合に選ばれたばかりか、『Number』が2012年に実施した読者アンケート企画「ボクシング、伝説の激闘ベスト20!(国内編)」でも1位に輝いた、まさに歴史的な日本人対決だった。

 あれから22年。坂本はボクシング史に残る名勝負を、独特な表現でこう振り返った。

「畑山との試合は、自分じゃない自分がリングに上がっていたんです」

 どういうことだろうか――。それを紐解いていくためには、坂本と畑山の関係を知る必要があった。

 坂本は昔から畑山のことを知っていた。坂本が世界ランキング入りした時、ボクシング関係者から「勢いのあるいいボクサーが出てきた」という声を聞いていた。それが畑山だった。 

 実際にグローブを交えたこともあった。畑山がスーパーフェザー級で新人王に輝き、東洋太平洋王者になった頃に、スパーリングをした。坂本が24歳。畑山が19歳の時だ。相手のパンチをもらってもダメージはなかった。むしろ、こちらのフックやストレートが的確に命中した。 

 その後も2度のスパーリングをした。「やればやるほど完成されたボクサーに変わっていたけれど、僕の方がまだまだ上だった」。その時の感触が、畑山との世界戦前にも確かな手ごたえとして残っていた。

「あれぐらいのパンチでは、俺は倒れない」

 キューバ人のトレーナー、イスマエル・サラスと畑山対策を練った。ビデオを何回も入念にチェックして、坂本が口を開いた。

「俺は畑山と何度もスパーリングしている。パンチの質も知っている。あれぐらいのパンチでは、俺は全然倒れない」

「その通りだ。あのパンチならお前は倒れない」

 タイで世界王者6人を育て、1996年にWBAベストトレーナー賞を受賞したサラスも太鼓判を押した。

 2人の意見は一致した。畑山戦は、攻撃重視の作戦で戦う、と。5階級制覇のトーマス・ハーンズの登場によって、1980年代に米国で流行した左のガードを下げる「デトロイトスタイル」。それを取り入れることに決めた。畑山をおびき寄せ、得意とする左フックを繰り出す戦法は、KOのチャンスが広がる一方で防御が甘くなるリスクを伴う。危険な賭けだったが、自信はあった。

【次ページ】 真夜中に見た試合のビデオ「負けという現実を…」

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