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壮絶な虐待を受け「一生、誰も信用しない」…坂本博之が味わった「死と同義」の敗北と、抜け殻の心に響いた“子どもたちの手紙”
posted2022/12/16 17:01
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph by
Koh Tanaka
福岡県の中央に位置する田川郡の一角にある川崎町。この地で坂本は1970年12月30日に生を受けた。物心つく前に既に両親が離婚。坂本の記憶は、鞍手乳児院(福岡県鞍手町)から誠慈学園(福岡県大任町)を経て、母、そして1歳年少の弟・直樹と福岡市内で暮らしていた5歳の頃から始まっている。
小学校2年生の春、坂本は直樹とともに遠戚に預けられた。食事は与えられず、寝る場所はない。硬い床の上で空腹を我慢しながら夜明けを待った。命綱は、学校の給食だけ。給食のない週末や夏休みは食べ物を求め、町や川べりを歩き回った。
口にできたのはザリガニやタニシ......。スーパーや公園のゴミ箱を漁り、弁当箱にへばりついた米粒を指ですくったこともある。栄養失調で衰弱していく兄弟を、家の者は無意味に殴りつけた。
幼い兄弟は、施設に保護され命を繋いだ
知恵も金もない無力な子どもには、逃げるすべはなかった。誰からも手を差し伸べられず、虐待に抵抗できないことが、幼い兄弟にとってどれほど絶望的だったか――。不安と孤独に苛まれた坂本は、こう心に誓った。
「自分と直樹以外、信じられる人は世の中にいない。一生、誰も信用しない」
登校途中に直樹が体調不良で失神し、ようやく異変に気づいた学校によって2人は保護され、児童養護施設「和白青松園」(福岡市)に連れていかれた。坂本が小学2年生の冬のことだった。1日3度の食事とふかふかの布団。仲間もいる。初めて食事に出された豚汁の温かさは、今も脳裏に焼き付いている。
「僕たちは、生まれて初めて人間らしく暮らすことができた。命を繋ぎ止めてくれたのが施設でした」