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壮絶な虐待を受け「一生、誰も信用しない」…坂本博之が味わった「死と同義」の敗北と、抜け殻の心に響いた“子どもたちの手紙”

posted2022/12/16 17:01

 
壮絶な虐待を受け「一生、誰も信用しない」…坂本博之が味わった「死と同義」の敗北と、抜け殻の心に響いた“子どもたちの手紙”<Number Web> photograph by Koh Tanaka

自身3度目の世界戦でヒルベルト・セラノに敗れ、血の涙を流す坂本博之。不屈のボクサーは、敗北の痛みと苦しみをどう乗り越えていったのか

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田中耕

田中耕Koh Tanaka

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Koh Tanaka

坂本博之は現役時代に7度の敗戦を喫している。その中でも、「魂が抜かれて目の前が真っ暗になった」と形容するほどショックを受けた試合がある。デビュー20連勝を懸けて臨んだ、1995年のファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)とのノンタイトル戦だ。プロボクサーとして初めて敗北を味わった坂本は、失意のどん底からいかに立ち直ったのか。その裏には、壮絶な幼少期の体験と、自身の命を繋いでくれた児童養護施設の子どもたちとの交流があった。(全3回の2回目/#1#3へ)※文中敬称略

 福岡県の中央に位置する田川郡の一角にある川崎町。この地で坂本は1970年12月30日に生を受けた。物心つく前に既に両親が離婚。坂本の記憶は、鞍手乳児院(福岡県鞍手町)から誠慈学園(福岡県大任町)を経て、母、そして1歳年少の弟・直樹と福岡市内で暮らしていた5歳の頃から始まっている。

 小学校2年生の春、坂本は直樹とともに遠戚に預けられた。食事は与えられず、寝る場所はない。硬い床の上で空腹を我慢しながら夜明けを待った。命綱は、学校の給食だけ。給食のない週末や夏休みは食べ物を求め、町や川べりを歩き回った。

 口にできたのはザリガニやタニシ......。スーパーや公園のゴミ箱を漁り、弁当箱にへばりついた米粒を指ですくったこともある。栄養失調で衰弱していく兄弟を、家の者は無意味に殴りつけた。

幼い兄弟は、施設に保護され命を繋いだ

 知恵も金もない無力な子どもには、逃げるすべはなかった。誰からも手を差し伸べられず、虐待に抵抗できないことが、幼い兄弟にとってどれほど絶望的だったか――。不安と孤独に苛まれた坂本は、こう心に誓った。

「自分と直樹以外、信じられる人は世の中にいない。一生、誰も信用しない」

 登校途中に直樹が体調不良で失神し、ようやく異変に気づいた学校によって2人は保護され、児童養護施設「和白青松園」(福岡市)に連れていかれた。坂本が小学2年生の冬のことだった。1日3度の食事とふかふかの布団。仲間もいる。初めて食事に出された豚汁の温かさは、今も脳裏に焼き付いている。

「僕たちは、生まれて初めて人間らしく暮らすことができた。命を繋ぎ止めてくれたのが施設でした」

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