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「ヒロユキ、中学のわりには強いのお」不屈のボクサー・坂本博之の生き方を決定づけた“最初で最後の腕相撲”「俺の本当のオヤジだ…」
posted2022/12/16 17:02
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph by
Number Web
物心つく前に既に両親が離婚し、母に引き取られた坂本にとって、父は存在しないも同然の人間だった。だが中学1年生の8月、故郷の福岡県川崎町の盆踊りに行った時、母から突然、父を紹介された。あまりにも急なことで、何を話していいのかもわからない。“初対面”では声が出なかったが、翌日、父と2人きりで喫茶店で待ち合わせた。
テーブルを挟んで、親子が向かい合って座る。打ち解けた雰囲気など望むべくもない。
「元気かあ?」
「ああ……」
言葉が続かない。沈黙の後、父が頭を下げた。
「ごめんなあ、ヒロユキ……」
父はオヤジとして何もできなかったことを謝っている。自分と弟を見捨てた目の前の男に文句を言うつもりだったが、真っ黒に日焼けした顔や、がっちりした体格が自分とそっくりだった。
「初めて会ったけど、僕も他人という気がしなくなっていた」
渾身の力を込めても、父の右腕は微動だにしなかった
その頃から腕力には自信があった。中学校の柔道部の先生と腕相撲をやっても負けたことがなかった。
「ちょっとオヤジをビックリさせてやろう」
坂本少年は得意げに鼻を鳴らし、勝負を持ちかけた。
「腕相撲、やろっか?」
テーブルにヒジを付けてガッチリと手を合わせる。
「レディ、ゴー!」
渾身の力を込めた。歯を食いしばり、腹の底から唸っても、父の右腕はピクリともしない。
「ヒロユキ、中学のわりには強いのお」
父はニヤリと笑った。 経験したことがない強さだった。
「あれで確信したね。これは俺の本当のオヤジだと。うれしかったですよ。負けたんだけど、すごくうれしかった。『オヤジって強えなあ』というのを味わいたかったから……」
しかし、このわずかな時間が、父との最初で最後の対話になってしまった。