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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「口が半開き、返事が返ってこん…」胸下不随となった上田馬之助は、夫人の愛に包まれて…妻が明かす、名レスラーと過ごした壮絶で幸せな日々
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byGantz Horie
posted2022/11/22 17:08
『スナック亜砂呂』時代の上田馬之助・恵美子夫妻をおさめた一枚
壮絶な介護生活…それでも「私たちは夢を持って生きてた」
恵美子夫人の昼夜を問わぬ懸命の介護のかいあって、2001年12月15日、上田はついに退院する。事故から5年9カ月後のことだった。しかし、退院といっても症状が劇的に快方に向かったわけではない。それまで看護師や病院関係者がやっていてくれたことを恵美子夫人が自宅でひとり、24時間体制で行わなければならない、壮絶な介護生活第2幕の始まりだったのだ。ただ、それでもふたりだけの生活は充実していたと恵美子夫人は語る。
「事故があってから2~3年は、ふたりで自殺することばかり考えていたんです。でも、家で生活するようになってからは、『いつも前向きに夢と希望を持って生きていこうね』って言うようになりました。トラックにはねられたからって、相手を憎んでもしょうがない。『こういう身体になったけんいうても、あんたは上田に間違いないし、良かれと思った方向に頑張って生きていこうね』言うて。あの人も『よし!』って、いつも言ってましたね」
頸髄損傷による激烈な痛みは生涯続くもの。リハビリとはそんな中で幻のゴールを目指す終わりなきマラソンだった。それでも自宅で生活をするようになって以降、ふたりは前を向き続け希望を捨てなかった。その理由を恵美子夫人は「私たちは夢を持って生きてたんです」と言う。
「事故に遭う前、一緒にアメリカへ旅行に行ったことがあって、それが凄く楽しかったんです。その記憶が残ってたもんだから、事故に遭ったあとも『アメリカはいいね、楽しかったね』という話をしてたんですよ。そしたら、あの人が『また行こう』って。ほぼ寝たきりなのに言うんですよ。
だから『アメリカ行くためにも元気出してよ』って言ったら、『うん、出す!』って。でも、身体の状態からしてふたりだけでいけるわけはないんです。『24時間テレビ』で日本武道館に行ったときも、リハビリの先生やら看護師さんやら、10人ぐらいで行ったんですよ。だから『アメリカに行くなら、最低10人は必要やね。となると年末ジャンボが当たらんことには行かれんよね』なんて言って(笑)。それからは毎年、『年末ジャンボは当たったか?』なんて言ってね」