- #1
- #2
ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「もう全身血だらけで、これが人間かと」病院で夫人が見た、名ヒール・上田馬之助の姿…交通事故後の決意「どっちが先に逝くかわからんけど…」
posted2022/11/22 17:07
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
東京スポーツ新聞社
竹刀を片手に金髪を振り乱した悪党ファイトで、’70年代から’80年代にかけて一世を風靡した“金狼”上田馬之助。日本マット界初の本格的日本人ヒールであり、とくに“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンとのコンビは、悪の名タッグとしていまも語り草となっている。
’76年に国際プロレスへ殴り込みをかけたのを皮切りに、新日本プロレス、全日本プロレスと、昭和の3団体をヒールとして渡り歩いた上田は、’80年代末に一度セミリタイヤ。その後、’90年代前半の多団体時代になると、NOWやIWAジャパンなどインディ団体でプロレス活動を再開。力道山時代のレスラーの凄みを見せていたが、そんな時、上田を悲劇が襲った。
フロントガラスを突き破り…重傷を負った上田
1996年3月、IWAジャパン仙台大会終了後、上田は営業部員の運転する宣伝カーの助手席に乗って東京に向かう途中、高速道路の路肩に停車中に大手運送会社の10トントラックに追突される事故に遭ってしまう。その事故で運転手は頭蓋骨を骨折して死亡。上田もフロントガラスを突き破り20メートル近く突き飛ばされ、アスファルトに叩き付けられた。幸い一命は取りとめたものの、この事故で上田は勁髄損傷の重傷を負い、胸から下は不随となってしまったのだ。
そこからが地獄の日々だった。上田は胸下不随ながら両手の指先に少しだけ感覚が残っており、健常者には感じられないほんの少しの風が吹いただけで全身に激痛が走った。食事や排泄も満足にできず、ひたすら激痛に耐えるだけの生活。我慢強さには定評がある上田が何度も自殺を考えたというのだから、想像を絶する激痛なのだろう。しかし、動かない身体は自殺することすら許されなかった。
それでも上田は、事故から約15年間も生き続けた。それは恵美子夫人の昼夜も問わぬ懸命の介護と、上田の不屈の闘志によるリハビリのかいあってのことだった。
筆者は2012年1月、大分県臼杵市の自宅で恵美子夫人にインタビューをさせてもらっている。最愛の夫を亡くしてまだ四十九日も迎える前だったが、気丈に語ってくれたその内容をあらためて紹介させていただきたい。