ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「アントニオ猪木と闘うことで有名になれた」“あぶれ者”だったスタン・ハンセンを覚醒させた“猪木の手腕”「感謝の気持ちを持ち続けている」
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byEssei Hara
posted2022/10/06 17:07
長年にわたって日本のプロレス界で活躍したスタン・ハンセン。アントニオ猪木への思いなどを語った
“あぶれ者”だったハンセンを活かした猪木の手腕
この初来日時点でのハンセンは、テキサスの若手レスラーの域を出ておらず、さしたるインパクトを残すことなく帰国。将来のトップレスラーとしての片鱗もあまり見ることができなかったが、1977年1月からの新日本プロレス参戦で“大化け”することになる。
それまでハンセンの休むことなく暴れ回るスタイルは、対戦相手にケガ人が続出したこともあり、本国アメリカでもプロモーターに敬遠され、なかなかブレイクできずにいた。事実、この前年にハンセンはニューヨーク地区の団体WWWF(現WWE)でヒールとしてメインイベントに抜擢され初めて大きなチャンスをつかむが、現地のスーパースターである“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノの首にケガを負わせ、長期欠場させてしまっている。プロレスは興行である以上、対戦相手、ましてやメインイベンターをケガさせてしまうことは御法度。「実力はあるが不器用で使いにくいレスラー」というのが、当時のハンセンの評価だった。
だが、そんな“あぶれ者”だったハンセンを最大限に活かしたのが、アントニオ猪木率いる新日本プロレスだった。新日本は1977年1月にハンセンを初参戦させると、「サンマルチノの首をヘシ折った」という“悪名”を逆に宣伝に利用し、1月7日、埼玉県・越谷市体育館で行われた「新春黄金シリーズ」開幕戦で、いきなりトップである猪木と対戦させる。この初対決はハンセンの反則負けで終わったが、猪木と闘うことによって、ハンセンの才能がついに覚醒するのだ。
「私がプロレスラーとして成功できた要因として、新日本に初めて来た時に猪木とシングルで闘うチャンスを与えてもらったことがとても大きかったと思う。まだ日本ではスターでもなんでもなかった自分が、猪木と闘うことで有名になり、お客さんを納得させる試合ができたわけだからね」
引き立て役のヒールではなく「対等のトップ」に
また、ハンセンの日本でのブレイクには、アブドーラ・ザ・ブッチャーとタイガー・ジェット・シンという、二大悪役レスラーの影響も大きかったという。
「私はタイミングにも恵まれていたんだ。初めての全日本のツアーでブッチャーと一緒になり、新日本に来たら今度はシンと一緒だった。最初の2ツアーで、日本で最も成功していたガイジンレスラー2人を毎日間近に観て勉強することができたんだよ。当時の日本の観客は、アメリカと比べると非常に静かだったが、ブッチャーやシンはそんな静かな会場を一瞬にして興奮のピークに持っていく。彼らの“暴動テクニック”はプロとして本当に勉強になった。とくにサーベルを振り回し観客席に突入するシンの入場シーンには、驚かされたよ。あれほど観客をエキサイトさせる入場シーンは、アメリカでも見たことがなかったからね。私のブルロープを振り回しての入場や、ワイルドな試合ぶりは、少なからずシンの影響を受けていることは確かだ」