プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
アントニオ猪木は死の4日前に“ある言葉”を遺していた…燃える闘魂を50年撮り続けたカメラマンが語る「猪木流・お別れ会」の夜
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/10/05 11:07
2022年7月、闘病中のアントニオ猪木。全身性アミロイドーシスという難病との闘いの末、10月1日に79年の生涯を閉じた
これは私事になるが、新型コロナウイルスがまん延し始めた初期に感染して人工呼吸器が必要なほどの重症に陥り、片方の肺をやられた。カメラを持てるようになるまで3カ月もかかってしまった。30キロ近く減った体重が元に戻ると「もう大丈夫? 戻り過ぎ? でも本当に治ってよかったねえ」と猪木さんはしみじみと喜んでくれた。自分の体が大変なのに、そんな優しい気遣いもしてくれた。
「馬鹿の一人旅…」猪木が遺した言葉の意味
9月27日。食卓の話題は、私が語り出したローマのコロッセオでの「夢の猪木vsアリ」、ピカソやゴッホから、テニスのフェデラーの引退試合へと移り、旅の話になった。
「また旅に出たいね」と猪木さんが言った。
「どこがいいかなあ。パラオ? アメリカ?」
ニューヨークの老舗ホットドッグ店に大きなリムジンで乗り付けて、若者の列に並んだ猪木さんの姿を思い浮かべた。
「ホットドッグ?」には小さく首を振ったが、「じゃあ、アイダホのアップルパイにしましょう。食べたことないですから」と言うと下を向いたまま微笑んだ。
両眼を大きく開けた猪木さんが言った。
「馬鹿の……」
突然だったので、よく聞き取れずに聞き返した。すると猪木さんはこの言葉を繰り返した。念を押すように、ゆっくりと。
「馬鹿の一人旅」
私が「馬鹿の一人旅」と復唱すると、猪木さんはうなずいた。猪木さんは満足したようでベッドに戻っていった。
私はベッドのわきの床に座って、アントニオ猪木を見つめていた。
2人とも時折目が合っても視線の会話が続くだけで、ただ静寂が過ぎていく。
猪木さんはしばらくすると気持ちよさそうに眠った。それから30分ほど経って、私は部屋を出た。
「馬鹿の一人旅」
私は呪文のようにその言葉を繰り返した。
それは間もなく旅立っていくことになったアントニオ猪木が、これまでの自身の人生と旅立ちを自ら形容した言葉だったのかもしれない。そして、時間が過ぎて思った。
「ああ、あの夜は猪木さん流のお別れ会だったのか」
猪木さん、ありがとうございました。