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ラウダ、プロスト、アロンソ、ベッテル…数多の名ドライバーが食らわされた、フェラーリの“やらかし”と内紛の黒歴史
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byGetty Images
posted2022/08/16 11:00
現役ドライバーとしてフェラーリの“やらかし”被害に遭っているルクレール。黄金時代の再来を誰より熱望しているのは彼かもしれない
これがエンツォの逆鱗に触れた。ラウダは翌年もフェラーリに残ってタイトル争いを繰り広げたが、シーズン中にエンツォから厳しく対応され、チーム内で居場所を失う。チャンピオンに返り咲いた後、「この屈辱は生涯忘れない」とシーズン最終戦を待たずして、フェラーリを電撃離脱した。
それでも、エンツォにはフェラーリの創始者としてのカリスマ性があり、ドライバーとの対立は時にチームの求心力を高めるための有効な手段ともなっていた。ドライバーに厳しかった一方で、マシン開発にも手を抜かず、チームスタッフたちを大切にしていたからだ。勝つために、速いマシンを作るという軸にブレがなかった。
これに対して、エンツォが他界した88年以降のフェラーリは、親会社のフィアットの上層部たちが成績だけを求めるようになっていった。思うような成績があがらないと、責任の所在を求めて粛清が始まり、チームは内紛とも思える混乱を度々起こしてきた。
プロストを苛立たせた「赤いカミオン」
チャンピオンナンバーである「1」とともにフェラーリに移籍してきたものの、2年後にチームを去った「プロフェッサー」ことアラン・プロストも、そうした混乱に巻き込まれたひとりだ。
移籍した90年こそ、チャンピオンにはなれなかったものの、プロストはフェラーリにとって79年以来の年間6勝を挙げ、跳ね馬の復活を牽引するかに思われた。ところがこの頃のフェラーリの新車は、89年にジョン・バーナードによってデザインされた「640」を進化させ続ける手法を採っていた。バーナードはすでに去り、91年はその3作目。フェラーリが投入した新車「642」は、時代遅れの感が否めなかった。
開幕戦から勝てないレースが続くと、フェラーリは指揮官を務めていたチェーザレ・フィオリオを更迭。後任のクラウディオ・ロンバルディはすぐさま「643」の開発に取り掛かり、シーズン中にデビューさせるが、急ごしらえで登場した新車に戦闘力はなく、プロストはついに体制批判を口にした。4位に終わった日本GPでフェラーリのマシンを「赤いカミオン(フランス語で「大型トラック」)」と罵倒したのである。これに激怒したフェラーリ上層部は、最終戦を前にプロストを解雇した。
2005年と06年に2冠を達成し、跳ね馬の再建を託されて2010年にフェラーリ入りしたフェルナンド・アロンソも、内紛の中でチームを去った王者のひとりとなった。