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甲子園で勝てない鳥取勢…なぜ? 高校の数より「景気」が影響する理由 元米子東監督「あの頃は全国レベルだった」

posted2022/08/19 17:00

 
甲子園で勝てない鳥取勢…なぜ? 高校の数より「景気」が影響する理由 元米子東監督「あの頃は全国レベルだった」<Number Web> photograph by KYODO

今大会、初戦で仙台育英に屈した鳥取商。なぜ鳥取県勢は甲子園で勝てなくなったのか?

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岡野誠

岡野誠Makoto Okano

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 なぜ、急激に弱くなったのか――。夏の甲子園『都道府県別勝利数ランキング』で鳥取は戦後、最下位に落ち込んでいる。今大会も1回戦で鳥取商が仙台育英に0対10で完敗するなど、2000年以降はわずか3勝しかしていない。
 しかし、1915(大正4)年の『第1回全国中等学校優勝野球大会』で全国初勝利を挙げたのは、鳥取中だった。戦前の旧制中学時代は白星19を数え、香川と並んで10位タイ。ベスト4に4度入るなど、強豪の部類に入っていた。一体、何が起こったのか。NHK高校野球解説者で、鳥取在住の杉本真吾氏(元米子東監督)が知られざる実情を明かす。(全5回の#4/#5へ

 ◆◆◆

1960年センバツで準優勝も…なぜ低迷?

 雨の中、地元の英雄となった米子東ナインを一目見ようと、駅前のビルは人で溢れ、屋根の上で待つ人まで現れた。国鉄伯備線の米子駅周辺には1万5000人もの市民が集まった――。

 1960年、春のセンバツで準優勝した米子東ナインが故郷へ戻ると、熱狂の渦が巻き起こった。「悲願の優勝まで遠くない」。鳥取県民はそう感じていたはずだ。米子東はセンバツで翌年もベスト4、1966年にもベスト8と勝ち進み、強豪の一角を占めていた。しかし、鳥取はその後、急激に低迷していく。杉本氏がその要因を読み解く。

「地元に社会人チームがほとんどない歴史と大きく関係しています。小学生や中学生を含め、球児がレベルの高い練習や試合を観られる環境がなく、高校卒業後の受け皿がない。社会人野球が撤退したことで、高校野球も弱くなったと考えられます」

 戦前、鳥取が強かった頃には米子鉄道局(のちに米子鉄道管理局に改称)が存在し、創部6年目の1934(昭和9)年から都市対抗野球に3年連続出場を果たした。『東の沢村、西の北井』と沢村栄治と並び称された北井正雄、国鉄スワローズ初代主将の井上親一郎、国鉄初の開幕投手を務めた成田啓二、『8時半の男』宮田征典を義弟に持つ巨人の種部儀康も在籍歴のあるチームだ。

 しかし、自動車の生産台数が伸びるなど他の交通機関が発達したことで、経営が悪化。1963年3月、米子鉄道管理局の野球部は休部に追い込まれた。

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