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甲子園で勝てない鳥取勢…なぜ? 高校の数より「景気」が影響する理由 元米子東監督「あの頃は全国レベルだった」
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byKYODO
posted2022/08/19 17:00
今大会、初戦で仙台育英に屈した鳥取商。なぜ鳥取県勢は甲子園で勝てなくなったのか?
「1985年夏は準優勝の宇部商、1986年は優勝の天理、1988年は準優勝の福岡第一に2試合目で、1989年は優勝の帝京に初戦で負けています。このうち最初の2年は初戦で鳥取西が日大三、米子東が東亜学園という東京勢に勝っていますし、福岡第一には米子商が7回までリードしていました。あの頃の鳥取は全国レベルだったんです」
鳥取から“高卒プロ入り”も1985年が最後
対戦相手には恵まれなかったが、1980年代はかつての強さを取り戻しつつあった。王子製紙米子誕生直前には、“山陰の暴れん坊”倉吉北が県外から選手を多数獲得し、1981年のセンバツベスト4に進出。当時は野球留学生がまだ少なく、全国に散らばっていなかったため、その恩恵にあずかったのだろう。地元出身選手も彼らに刺激を受け、ドラフトでは田子譲治(鳥取西高)が1981年にロッテ2位、加藤伸一(倉吉北)が1983年に南海1位と上位指名を受けている。
「鳥取の高校から直接、プロ入りした選手は1985年秋の足立亘(米子市出身/境→広島5位)を最後に40年近くいません(育成除く)。たとえば、大阪桐蔭は毎年、OBが自主トレで母校を訪れますよね。プロで活躍している先輩から受ける刺激は計り知れません。鳥取にはそういう環境がないんです」
高卒選手の「受け皿」が地元にない
1990年代に入ると甲子園での成績も低迷し、王子製紙米子が不況の煽りで1998年9月に廃部すると、さらに勝てなくなる。2000年以降は春2勝、夏3勝しか挙げていない。
社会人チームの減少は他県も同じだが、四国や九州、北関東などに独立リーグが発足し、ドラフト指名選手も生まれている。鳥取には2006年3月に社会人クラブチーム『鳥取キタロウズ』が創設されたが、前の試合のピッチャーが次の試合でキャッチャーを務めるなど選手不足に悩み、NPBへ選手を送り出せるレベルではなかった。同チームは『鳥取ペアキングス』に改名して4年後の2016年5月に休部。中国地区大学野球連盟には鳥取大学が1980年から加盟しているが、1990年を最後に1部から遠ざかっている。
なぜ、一定のレベルを保つ大学や社会人の存在はそこまで大きいのか。米子東から1浪して慶應大学に入学し、野球部で4年生の時に新人戦の監督、卒業後に助監督を務めた杉本氏はこう考える。
「野球は確率のスポーツですよね。打者の読み、捕手の配球、守備陣形などを含め、成功率の高い作戦を選択することで勝利に近づける。上のレベルで大舞台を経験しないと、そのセオリーは身に付かない。鳥取は県内に受け皿となるチームがないので、高校卒業と同時に野球生活を終える選手がほとんどです。そのため、大学や社会人で学んだ指導者が必然的に少なくなってしまう」
鳥取の県民性も関係?
杉本氏は自身の経験を踏まえ、鳥取が甲子園で勝てないもう1つの理由を挙げる。