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「情熱と我慢」「普通の人なら離婚してます(笑)」遠藤保仁らを育てた“高校サッカー名将の秘蔵ノート”…妻・息子も懐かしむ武勇伝とは
posted2022/08/11 11:00
text by
粕川哲男Tetsuo Kasukawa
photograph by
JIJI PRESS
この夏で、丸5年が過ぎる。
8月11日は、2017年に76歳でこの世を去った松澤隆司先生の命日だ。
鹿児島実業高校(以下、鹿実)サッカー部を日本屈指の強豪に鍛え上げ、多くの卒業生を送り出してきた。前園真聖、城彰二、遠藤保仁、松井大輔など、のちに日本代表として活躍する選手たちも、高校時代に松澤先生の指導を受けている。
今年の1月7日に同じく76歳で死去した、元国見高校サッカー部監督の小嶺忠敏さんと切磋琢磨し、先頭に立って九州のサッカーを引っ張ってきた。
合言葉は「九州はひとつ。日本のサッカーは九州から」だった。
日本中がオリンピック景気に沸いていた1964年、先輩の勧めを断れず鹿実サッカー部のコーチに就任してから約半世紀、ありったけの情熱を注いできた松澤先生の死因は多臓器不全。その身がボロボロになるまで、すべてをサッカーに捧げてきた。
「松澤先生が残したノートがある」「情熱と我慢」
「松澤先生が残したノートがある」
そこに、何が書かれてあるのか。名将の指導哲学か、全国で勝つ組織作りか。あるいは日本代表選手の高校時代の逸話に触れられるかもしれない……。
そんな期待を胸に、鹿児島に飛んだ。
「これなんですよ」
和子夫人から手渡されたのは、一冊の大学ノートだった。話を聞くと、2011年に勇退を決断した際、それまでに書き溜めていた数十冊のノートはすべて処分したそうだ。自分が培った古い理念を残す必要はない。たくさんの教え子たちが、時代に合った最適な方法で子供たちを育てていけばいい。松澤先生は、そう考えていたという。
唯一残されたB5判のノートの表紙には、幾つかの電話番号と並んで「安いくすり」とも書かれてある。鹿実サッカー部から身を引いて以降、2度の大手術を受けた心臓の持病と戦い、薬や点滴と付き合いながら記したせいだろうか、その筆跡は強くない。
1ページ目には1行のみ。
「情熱と我慢」
タイトルとして書かれていたのは、松澤先生の座右の銘だ。そう言えば生前に取材したとき、こんな話を聞いたことがある。
「一番大事なのは才能ではなく、勝ちたい、強くなりたいという『情熱』なんだ。そして、たとえ負けたとしても『我慢』しないといけない。決して諦めず、負けた悔しさを新しい『情熱』に変えて、ひたすら努力を続けていく。それが長い指導者生活のなかで見つけた、ひとつの答えかもしれんな」
家族旅行に行ったことなんて、一度もないですよ
ノートをめくると、そこには松澤先生が歩んだ76年の生涯が記されていた。