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「情熱と我慢」「普通の人なら離婚してます(笑)」遠藤保仁らを育てた“高校サッカー名将の秘蔵ノート”…妻・息子も懐かしむ武勇伝とは
text by
粕川哲男Tetsuo Kasukawa
photograph byJIJI PRESS
posted2022/08/11 11:00
2004年度の高校サッカー選手権で優勝した際の鹿児島実・松澤監督。彼の歩んだ人生とは?
「家族旅行に行ったことなんて、一度もないですよ。夏の遠征の最終日、みんなでご飯を食べに行く。ただ、それだけ。寮生のために朝昼晩、多いときには35人分のご飯を作って35年間。主人は『毎日1万円あげるから』と言いながら、それも嘘。くれないんですよ。それを嫌とも言わんでやってのけて、よう頑張り続けました。普通の人ならしませんよ。もう離婚してます(笑)」
そう言いながらも、和子夫人はどこか満足そうだった。一時は鹿実サッカー部の指導に携わり、現在は鹿児島県大島郡にある『おもなわ こども園』副園長、長男の尚明さんもその横で微笑んでいる。
当時は、鉄拳を飛ばすスパルタ指導を
松澤先生が、臨時教員をしていた当時の教え子である7歳下の和子夫人と結婚したのは、1968年10月13日。鹿実サッカー部の監督になって3年目のことだ。
前年の夏、鹿実にとって初の全国大会となるインターハイ出場を実現してはいたものの、県内では鹿児島商、鹿児島工の壁が厚く、全国高校サッカー選手権出場は果たせていない。また、当時「九州の三強」と呼ばれた島原商、福岡商、大分工と試合をすればボロ負け。そうした強豪に追いつこうと、ときには鉄拳を飛ばすスパルタ指導をしていた。
「とにかく、あらゆることを試して、もがき苦しんでいたようです」
尚明さんが、父との会話を思い出しながら、鹿実の黎明期について教えてくれた。
「(島原商の)小嶺先生は親父の5歳下なんです。いくら相手が強かったとはいえ、年下の先生に頭を下げて教えてくださいなんて、よく言えたなって。なかなかできないですよね。大商大(大阪商業大学)を出て仲間がたくさんいた小嶺先生と違って、無名だった親父は何かインパクトをつけなきゃいけないということで、毎回焼酎を片手に県外の先生たちに挨拶に行っていたようです。
最初は『誰だお前は?』と言われるけども、“焼酎の男”と覚えてもらえる。とにかく印象に残ることをしようと努力していたみたいです。名前を変えたのも、その頃ですよ。本当は“隆”なんだけど、姓名判断で運気を呼び込もうと“隆司”にしたんです」
冗談半分に「バスがほしい」と言ったんですよ
松澤先生が率いる鹿実が選手権の舞台に辿り着いたのは1978年度のこと。コーチ時代を含めると、実に14年の歳月を要した。