- #1
- #2
Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
最強軍団・大阪桐蔭にもこんな時代が…02年夏の“初戦敗退”から西谷野球は何が変わったのか?「先生は悔しかったでしょうね」
text by

日比野恭三Kyozo Hibino
photograph byKYODO
posted2022/08/10 06:01

1991年夏の甲子園で沖縄水産を破り、初出場初優勝を成し遂げた大阪桐蔭。しかしここから足踏みが続き、2002年夏まで出場が遠のいた
11年ぶり夏の1回戦の相手は、歴戦の阪口慶三監督に率いられた東邦。長澤は府大会決勝で好投した3年生の松下に背番号1を渡し、初戦の先発を託した。
だが立ち上がりを突かれ、初回4長短打で2点を失う。長澤が苦い笑みを浮かべる。
「ぼくが1番をやった松下を先発で使うというのは、阪口さんには見え見えやったと思います。かなりデータを調べられてた。後で考えたら(背番号10の)三島でいってもおもしろかったかもわからんですね」
すぐに1点を返し、1-2のまま最終回に突入する。8回から継投した三島が9回もマウンドに立った。西岡が駆け寄ったのはその時だ。強い口調でこう言った。
「裏の攻撃につながる大事なイニングや。先頭打者だけは出すなよ」
その声がけは成功したとは言いがたかった。主将からクギを刺された2年生右腕は、いきなり四球を出してしまったからだ。
走者が三塁に進み、大阪桐蔭はスクイズを警戒してフィールディングのいい遠山善之にスイッチ。だがやはり詰めが甘かった。
長澤が再び苦い顔をする。
「代わりっぱな、初球をいきなりスクイズされた。ちょっと外せよ、と言うたらよかったんですけど……まあ完敗ですわ」
結局この回に奪われた3点が致命傷となった。裏の攻撃で2点を返したが、久々の勝ちは土煙のように消えた。
西谷監督は「悔しかったでしょうね」
三島らを最上級生とする新チームで秋季大会を戦い、その後、西谷が再び監督に就任することとなった。
超がつくほど充実した戦力で甲子園を逃した西谷は、その翌年、無理だと思われたチームが甲子園にたどり着くさまをどのような思いで見つめたのか。長澤が慮る。
「悔しかったでしょうね。西岡らのチームの時、西谷はコーチに戻ってたんですけど、いいところも悪いところもぼくを見てくれてたんやないかと思うんです。そこで感じたこととか前回の失敗の経験を糧にして、チームづくりをしていったんやと思います」