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劇団四季・浅利慶太から「水泳をやめたら駄目だ」藤本隆宏の無名下積み時代を支えたオリンピック思考「4年というスパンで考えられた」
posted2022/07/26 17:01
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph by
Takuya Sugiyama
泳ぐからには金メダルしかない。
藤本隆宏は、夢破れたバルセロナを経て、3度目の大舞台を見据えた。藤本はその翌年、オーストラリアへの留学を決意する。
「オリンピックで体力の無さを痛感しまして、世界でいちばん厳しい練習をしているところに身を置く選択をしました」
バルセロナ五輪前年の1991年の合宿に参加し、練習メニューを体験したところ「絶対に嫌だ」と思うほど過酷だった。だからこそ五輪後に自分に足りないものを求めて向かった。
「留学中は練習しかなかった、という感じです。朝起きて、午前4時半からウェイトトレーニングをやって、水に入って2時間半か3時間、10kmくらい泳ぎます。食事を作って食べて、仮眠をとって午後の練習。1日に泳ぐ距離は2万5000mくらいでした」
今日であれば1日に8000m~1万mが標準だろうことを考えても練習量は半端ではなかった。
しかも、それらにとどまらなかった。
「『選手村は広いから足腰を鍛えなければいけない』というすごい理由で(笑)、走らされもしました。ほとんど練習だけの毎日だったので、英語もほとんど身につかなかったですね」
ミュージカルの世界はスポーツに共通している
記録は伸び悩んだ。しかし、オーストラリアの地でその後の人生を大きく左右する出会いがあった。
「芸術が好きだったので、合い間にコンサートや美術館に行ったりしていました。あるときミュージカル『レ・ミゼラブル』を見に行ったのですね。そのとき『この世界はスポーツに共通している』と感じました。ライブ感ですね。舞台を見ているお客様が泣いたり笑ったり拍手をしている。その絵が、オリンピックの会場と重なった。何のために水泳をやっているかというと、自分のためでもあったけれど、喜んでくれる人がいるからこそやっていた。この世界は同じ経験ができるんじゃないかと思いました」