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《追悼》空手道場の看板を奪われ、裸足で雪中撮影も…青柳政司が歩んだ“激動のプロレス人生”「館長、そちらでもバット折っていますか」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/07/16 06:00
7月6日に65歳で亡くなった「館長」こと青柳政司。筆者は1992年2月、札幌・円山公園で“裸足の雪中撮影”を敢行した
裸足で雪中撮影「足の裏が真っ赤になって…」
筆者が青柳と話すようになったのは、彼が新日本に来てからだった。1992年2月、雪まつりの頃、札幌の野外で青柳を撮影した。新日本プロレスの翌年のカレンダー用だった。売り出し中だった闘魂三銃士のようにトップレスラーではないから、12枚もののカレンダーでも、そのうちの1枚がまるまる青柳に割り当てられるわけではない。1枚が何分割かになる。そのことを青柳に告げた。
「はい。わかりました。行きましょう」
午前中、円山公園にはヒザくらいまで雪が積もっていた。撮影はそこで行った。曇っていたが、時折、陽が差し込んだ。こちらは雪靴を履いているが、青柳は空手着で、もちろん裸足だ。
青柳は撮影用というよりも、日常の稽古のように黙々と蹴り続けた。雪の飛び方がうまくいかず、撮影にちょっと時間がかかってしまった。青柳の足の裏は真っ赤になって、少し血がにじんでいた。
その頃、青柳にIWGPヘビー級王座への挑戦話が水面下であった。長州力が王者の時で、藤波辰爾とは前年にシングルで対決していたが、エッと驚くような話だった。挑戦が現実になり青柳が長州に勝つことができれば、道着のIWGP王者が誕生するかもしれないチャンスだったが、この話は残念ながら立ち消えになってしまった。
1994年、青柳は新格闘プロレスを旗揚げした。リングサイドにはスーツ姿の佐山聡もいた。修斗と提携した青柳だったが、この新団体はうまくいかなかった。
WWF参戦のチャンスと「バット折り」のウラ側
そんな青柳にチャンスが訪れた。日本で開催されたWWF(現WWE)のマニアツアー4試合への出場オファーだった。
青柳にはビッグネームの対戦相手が用意された。1994年5月7日、横浜アリーナでの初戦はオーエン・ハート。青柳は日本刀を手にリングに上がった。翌8日には地元名古屋レインボーホールで元王者のボブ・バックランドを丸め込んでピンフォール勝ちした。9日の大阪城ホールではロイヤル・ランブル形式の試合に出場した。最後の11日、札幌月寒ドームではクラッシャー・バンバン・ビガロと対戦した。