酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
落合博満は「圧勝で三冠王」を経験したが… 村上宗隆22歳「最年少三冠王」へのライバルは誰か〈王さんやノムさんはどうだった?〉
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2022/06/27 17:10
この6試合、中日・巨人相手に11安打5本塁打15打点。村上宗隆の打棒が止まらない
当時の巨人は空前の「V9」の最中。3番王、4番長嶋のONコンビは、史上最強と呼ばれたが、相手投手は王貞治との勝負を避け、長嶋と勝負することが多かった。長嶋はこういう状況になると燃える。ここで殊勲打を打って多くの打点をものにして、結果的に王の三冠王を阻止した。
王貞治が三冠王を初めて獲得したのは1973年。力の衰えが見えてきた長嶋は翌年に引退する。頼れる相棒であるとともにライバル長嶋の存在が、王にとって三冠王の最大の阻害要因だったのだ。
未来の三冠王と目されながら同僚に阻まれた“怪童”も
ライバルに三冠王を阻まれた名打者と言えば、中西太もその1人である。
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西鉄黄金期の強打者、中西太は1953年から1958年までの6シーズンに本塁打、打点の二冠王を2回、本塁打、首位打者の二冠王を2回獲得。三冠王は時間の問題と言われたものの、チームメイトの豊田泰光、南海の野村克也、大毎の山内和弘などのライバルの前に「あと1冠」が届かなかった。
特に1956年は本塁打、打点の二冠に加えて打率は.325で2位。首位打者をわずか4毛6糸差で豊田泰光(豊田は.32514、中西は.32468)に奪われた。中西はシーズン最終戦まで三冠王の可能性があったが、三原脩監督は「チームメイトで争っても仕方がない」と最終戦で中西、豊田をともに休ませてタイトルを分け合った。
三原監督としては「中西はいつでも三冠王を取れる」と思っていたのだろうが――1959年以降、中西は故障でレギュラーを外れ、そのチャンスは失われてしまった。
では、三冠王を3回獲得した落合博満はどうだったか?
最初の三冠王を取った1982年は本塁打こそ阪急のケージと1本差、日本ハムのソレイタと2本差だった。しかし1985年は打率(.367)は2位近鉄デービスと.024差、本塁打(52本)は2位デービス、西武秋山幸二と12本差、打点(146点)は阪急ブーマーと24点差と、3部門ともに他の追随を許さない圧勝だった。
こういうライバル不在の「超特大の三冠王」なら、それほどプレッシャーはないだろう。ただ、多くの三冠王は日々刻々と変わるライバルとの数字争いに神経をすり減らしながら、最後の栄冠をつかんだ。
村上が最も警戒すべきライバルはやはり、岡本では
今季の村上は、現時点では本塁打、打点は2位に大差をつけている。しかしまだシーズンは折り返し点、今季、爆発的な大当たりをしばしば見せている阪神の大山悠輔は、一気に差を詰める可能性がある。また前述の佐野恵太、牧秀悟のDeNAコンビも侮りがたい。
しかし何より警戒すべきは巨人の岡本和真だ。