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史上初の電流爆破デスマッチで故・ターザン後藤が味わった“想像以上の威力”とは… 大仁田厚「あれはオレたちが生きるための電流爆破だった」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/06/12 11:00
1990年8月4日、大仁田厚との「有刺鉄線電流爆破デスマッチ」で被爆するターザン後藤。筆者が設置したリモートコントロール・カメラで撮影
突然の訃報を受けて大仁田は…
川崎球場でのプロレス開催は1969年7月の日本プロレス以来、22年ぶりだった。それまでのプロレスでの観客数は、1967年8月の日本プロレスの2万3000人が最多。この数字を新興のFMWが1万人も上回った。
「オレは鬼になる。大仁田に引導を渡してやる」
後藤は決死の覚悟で大仁田に挑んだ。壮絶な頭突き合戦。道連れの被爆もあった。最後は大仁田のパワーボム5連発。16分1秒。またしても後藤はマットに沈んだ。
倒れている後藤にバケツの水を浴びせて、肩を貸して立ち上がった大仁田は叫んだ。
「オレは後藤が好きなんじゃ。誰が何と言おうと家族なんじゃい」
大仁田が後藤に付き添うように同じ救急車に乗り込んで、2人は市内の病院に搬送された。後藤は頸椎を痛め、さらに脳震盪でそのまま入院した。
空前のブームの中に大仁田と後藤がいた、という事実は揺るがない。
その後藤が5月29日、突然、この世を去った。58歳だった。肝臓がんだったという。
5月31日の後楽園ホール、ジャンボ鶴田の23回忌興行では後藤に追悼の10カウントが鳴らされた。袂を分った大仁田も、そのリング上にいた。
「ターザンがいたから、オレがある」という思いが大仁田にはある。大仁田は1990年のプロレス大賞を獲得したが、選考の順番として先に選ばれる「年間最高試合」はプロレスラーの勲章だ。それが汐留での大仁田vs後藤だった。
「ターザンはアメリカからFMWに来てくれた。オレはうれしくて成田まで迎えにいったよ。そして、あの電流爆破を受けてくれた。ターザンには感謝しかない。あれはオレたちが生きるための電流爆破だった」(大仁田)
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