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史上初の電流爆破デスマッチで故・ターザン後藤が味わった“想像以上の威力”とは… 大仁田厚「あれはオレたちが生きるための電流爆破だった」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/06/12 11:00
1990年8月4日、大仁田厚との「有刺鉄線電流爆破デスマッチ」で被爆するターザン後藤。筆者が設置したリモートコントロール・カメラで撮影
閃光に包まれた後藤「体が燃やされたようだった」
「怖かった。爆発した瞬間は風が来るような感じで、一瞬動くのを忘れてしまった」
大仁田はそう言ったが、後藤はちょっと違った。
「爆発よりも、電流がビリッとくる。体が火で燃やされたようだった。有刺鉄線の痛みは感じなかった。全身がしびれている。勝負には負けたが、試合には勝っていた」
リモートコントロール・カメラのフィルムには、青白い閃光に包まれる後藤の姿が残っていた。
大仁田が6回被爆した後、後藤が1回被爆した。有刺鉄線にもたれた後藤を、それぞれサイズの違う小型爆弾が襲った。実験に使われたものよりも大きいサイズの爆弾も交じっていた。
最後は大仁田がDDTとサンダーファイアーパワーボム3発で後藤をKOした。11分14秒の電流爆破マッチ、それは想像を超えた威力と迫力だった。
3万人超の大観衆が川崎球場に集結
後藤は自宅で1時間近く話している間、一度も座ろうとしなかった。
「また、やるかって? もっとすごいのがあるなら、オレはプロレスラーだから、やりますよ。いつも死ぬ気でやっていますから」
後藤はその1週間後、やけどの痛みが消えないまま戦いのリングに戻った。
さらに1年後の1991年9月23日、後藤は川崎球場のリングに立つ。今度は金網の電流爆破だった。相手はもちろん大仁田だ。
「ノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチ」
汐留大会の5倍の火薬量で、160個の小型爆弾が取り付けられた。FMW史上最多の3万3000人の大観衆が詰めかけた。これは川崎球場での野球も含めた観客数のレコードだった。
同日、18時30分開始のFMWより早い15時から、新日本プロレスが横浜アリーナでビッグマッチを行った。こちらもグレート・ムタvs藤波辰爾などの好カードで超満員札止め1万8000人のファンを集めた。同日は横浜から川崎にハシゴしたファンや報道陣も多い。川崎球場に訪れたマスコミの数は180人で、「プロレス京浜戦争」とも呼ばれた。