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《命日》稀代の名レスラー・三沢光晴を生んだ「2代目タイガーマスク“苦闘の6年間”」 22歳の若手が全日本プロレスに黄金期をもたらすまで
posted2022/06/13 17:30
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
三沢光晴が試合中の事故で帰らぬ人となってから早13年。今年も6月13日の命日を迎えた。
三沢は1990年代にエースとして全日本プロレスに黄金時代をもたらし、2000年にはプロレスリング・ノアを設立。業界を牽引し続けた平成を代表する名レスラーだ。そんな三沢がプロレス界のトップに立つ前、2代目タイガーマスクとして約6年間、覆面レスラーだったことはプロレスファンならよく知るところだろう。
ともすれば“黒歴史”とも捉えられがちな2代目タイガーマスク時代であるが、筆者は三沢光晴が真のトップレスラーになるために、重要な時期だったと考える。そこで今回、あらためて2代目タイガーマスクの誕生とその足跡を振り返ってみたい。
“お家騒動”と初代タイガーマスクの事実上の引退
すべての発端は、新日本プロレスの“お家騒動”だった。1983年、佐山サトル扮する初代タイガーマスクの人気もあり空前のプロレスブームを巻き起こしていた新日本だったが、エース兼社長のアントニオ猪木が個人的な事業に執心。その会社が火の車になると莫大な借金は新日本の経営までも圧迫し、社内クーデター未遂事件にまで発展してしまう。そのゴタゴタに巻き込まれたタイガーマスクが、’83年8月11日に内容証明付郵便で契約解除通告書を送付。人気絶頂のまま、事実上の引退となってしまったのだ。
新日本を退団したタイガーマスクこと佐山サトルは、その後タイガージムを設立し、自身が考案・設立した新格闘技シューティング(現在の修斗)普及に注力する。しかし、この時点ではプロレスを完全に辞めたわけではなかった。リングに上がれば莫大な利益を生む佐山をジム経営と新格闘技だけにとどめておくのはもったいない。そう考えた当時の佐山のマネージャー、ショウジ・コンチャがタイガー復帰に向けて動き出したのだ。
コンチャがまず最初にコンタクトを取ったのが、元・新日本プロレス営業本部長の新間寿だ。新間は、猪木の右腕として数々のビッグマッチを実現させ、漫画『タイガーマスク』の原作者・梶原一騎の許可を得て初代タイガーマスクを誕生させた張本人でもあったが、前述のクーデター騒動により失脚。新日本を追われていた。しかし、ハルク・ホーガンらを擁するアメリカのメジャー団体WWF(現WWE)会長のビンス・マクマホン・シニアと太いパイプを持っていたこともあり、佐山と再び合体することで新団体設立を決意したのだ。
新間の計画では、まず’84年3月25日にニューヨークで行われるWWFのマディソン・スクエア・ガーデン大会で、2万人の観衆を前に佐山タイガーを華々しく復活させ、春からはタイガーをエースとした新団体UWFをスタート。猪木の協力も水面下で取り付け、84年4月からフジテレビの水曜夜8時枠でレギュラー放送も内定させていた。
「佐山を使わず、自前でタイガーマスクを作ったらどうか?」
しかしこの計画は、契約問題などから頓挫。テレビ放送も土壇場で中止となったことで、佐山タイガーのMSGでの復帰戦も同時に消滅してしまう。そこでコンチャが次に話を持っていった相手が、全日本プロレスの総帥ジャイアント馬場だった。