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「投げたら壊れる」33年前、近鉄リーグ優勝の代償に“加藤哲郎25歳の肩”…激変した“令和の投手起用法”に何を思う?
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph bySankei Shimbun
posted2022/05/07 11:05
1989年日本シリーズ、近鉄vs巨人。仰木彬監督と第3戦の勝利投手・加藤哲郎25歳
4月22日、2対0とリードした5回裏、2死一塁で西武の1番・石毛宏典を迎えると、仰木監督が交代を告げた。勝利投手の権利を得る目前で、加藤哲はマウンドを降ろされた。
「唖然としましたよ。前の週にプロ初勝利で勢いが出てきたところで、邪魔するかって。勝ち星が1つ付くかどうかで、人生変わりますから。僕は仰木さんにいまいち信用されてなかった。だから、正直あまりいい印象を持っていない。もちろん、監督としては認めますけど。評価と好き嫌いは別ですから」
試合球を持ったままベンチに帰ろうとするほど怒りを露わにした加藤哲には“目上の命令は絶対”という昭和の空気など関係なかった。2番手の吉井理人が9回まで投げ切って2対0で勝ったものの、全く納得しなかった。
「なんで代えるのって。あの交代で、投手コーチの権藤(博)さんと仰木さんとの間に軋轢が生じました。その後、僕は脱力感で投げる気にならなかったんですよ。『もう無理』って」
自らの意思もあって、ローテーションを外れた加藤哲は5月以降、中継ぎや谷間の先発要員となった。3勝3敗1セーブと大飛躍には至らなかったが、監督にさえ歯向かう強心臓が翌年のペナントで生きる。
先発、中継ぎと“獅子奮迅の1989年”
1989年のパ・リーグは稀に見る大混戦となっていた。前年の10月19日、連勝すれば優勝というロッテとのダブルヘッダーで勝ち切れなかった近鉄ナインは並々ならぬ決意でシーズンに臨んでいた。チームが『リメンバー10.19』を合言葉にする一方で、7年目で実績のない加藤哲は生き残るために必死だった。
「同じチームのピッチャーは全員敵やと思っていました。山崎(慎太郎)や吉井(理人)が『フォークボール教えてくださいよ』と来た時、嘘八百言いましたから(笑)。なんで俺が教えなあかんねんって。だって、ライバルですからね。他のピッチャーが活躍すれば、自分の出番が少なくなる。試合後は一緒に麻雀をしてましたけど、オフに食事やゴルフに行くなんてなかったですね」
5年ぶりの優勝を目指すオリックス、4連覇中の西武との三つ巴になった終盤、加藤哲は先発、中継ぎとスクランブル登板を繰り返した。9月30日のロッテ戦から中4日、中3日と登板間隔を縮めて先発し、シビれる場面で得意のフォークを多投した。