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絶対王者・オジュウチョウサン11歳が復活…危険を伴う障害レースが、それでも“競走馬の救済の場”だと言える理由 

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島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

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posted2022/04/23 11:00

絶対王者・オジュウチョウサン11歳が復活…危険を伴う障害レースが、それでも“競走馬の救済の場”だと言える理由<Number Web> photograph by Photostud

4月16日、中山グランドジャンプを制してJ・GI最多勝記録を「9」に伸ばしたオジュウチョウサン

障害レースは日本で独自に進化してきた

 日本でも、江戸時代末期に横浜の居留外国人によって日本で初めて近代競馬(独立したコースで、番組=スケジュールに従って開催される競馬)が行われたころから、障害レースも行われていた。

 現在の中央競馬につながる、明治、大正時代以降の倶楽部時代、日本競馬会時代にも障害レースが行われた。欧米では、平地と障害は馬も騎手も異なる「別のリーグ」といった開催形態なのに対し、日本では、平地競走を行う競馬場で障害レースを行い、両方に出場する馬や騎手も現れる――という独自のスタイルで進化してきた。

 1943年に女傑クリフジで日本ダービー、オークス、菊花賞の変則三冠を制した最年少ダービージョッキーの前田長吉は、障害レースでも勝ち鞍があり、20歳3カ月でダービーを勝ったあとも障害に騎乗している。

 1954年のJRA設立後も、「闘将」加賀武見、藤田菜七子の師匠として知られる根本康広、現役の熊沢重文らが、平地GI(級)とJ・GI(級)の両方を制している。

 オジュウチョウサンが登場する前も、障害レースが人気を博した時期があった。一例として、第1回有馬記念(当時の名称は「中山グランプリ」)が行われた1956年を見ると、11月18日に行われた中山大障害の入場者は3万7761人、売得金は2874万3700円。12月23日の有馬記念は、それぞれ2万7801人、8124万8400円だった。売上げこそ有馬記念に及ばなかったが、入場者数は、中山大障害のほうが多かった。障害レースには当時から、「ライブで見たい」と多くの人に思わせる魅力があったのだ。

障害レースが競走馬の“救済の場”と言える理由

 日本の障害レースは、平地で頭打ちになった馬たちが、生き残っていくために活路を見いだす、いわば救済の場といった存在になっている。

 私は、それでいいというか、そういう場があったほうがいいと思っている。

 平地よりレース数も少ないし、賞金も安いのだが、安いといっても、中山大障害や中山グランドジャンプの1着賞金は6600万円もある。オジュウチョウサンは9億4137万7000円(うち平地は2592万円)もの賞金を稼いでいる。

 日本で(世界でも)初めて通算獲得賞金10億円を突破したのは、1990年代前半に中・長距離界に君臨したメジロマックイーンだった。その後、次々と記録が更新され、日本の競馬史上最高額の賞金を獲得したのはアーモンドアイで、19億1526万3900円。2位はキタサンブラックで18億7684万3000円、3位はテイエムオペラオーで18億3518万9000円となっている。

 オジュウチョウサンが今年12月の中山大障害を勝てば、史上初めて獲得賞金が10億円を突破する障害馬(平地の賞金も合算しないと届かないが)となる。おそらくこれは、世界でも初めてのことだ。

 平地では結果を出せなくても、別の道で10億円ホースを目指せるのだから、夢がある。

 スピードの絶対値以外の部分、跳躍力であったり、スタミナであったり、人間とのコミュニケーション能力など、別の部分で力を発揮すれば、スーパースターになれるのだ。

 日本馬ではないが、2005年から中山グランドジャンプを3連覇したオーストラリア調教馬のカラジは、母国では、2004年7月31日のヒスケンズステープルチェイスで3着になって以降、平地でしか走っていなかった。つまり、2005年からは、日本専用の障害馬兼オーストラリアの平地競走馬となっていたのだ。

 障害レースは、馬の競走生活にこうしたバリエーションを与えることもできるのだ。

【次ページ】 障害レースで高齢馬も活躍できるのはなぜか?

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