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94年生まれ、大谷翔平が思い出す“今江敏晃のマネをしていた野球少年時代”「だから僕は羽生世代ですって」 

text by

石田雄太

石田雄太Yuta Ishida

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photograph byNanae Suzuki

posted2022/04/13 06:55

94年生まれ、大谷翔平が思い出す“今江敏晃のマネをしていた野球少年時代”「だから僕は羽生世代ですって」<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

今季も活躍が期待される大谷翔平(撮影は2015年)。自身の少年時代を振り返った貴重なインタビューを再掲する

「子どもの頃って、2年違えば体力的にも、投げる、打つ、捕るにしても力量差があって、すごく上の存在でしょ。ちょうど同じ日に、1つ上の近所のお兄ちゃんとチームヘ入ったんですけど、一緒にキャッチボールをしたら自分よりも上手くて、それが悔しかった。こういうところで負けたくないなと思いましたし、世の中にそういう存在がいるんだということは、同い年や年上の子がいる団体の中で野球をやってみて初めてわかることですから……それは、お父さんとのキャッチボールだけじゃ、わからないことでしたね」

 小学生の先輩、後輩といっても、シビアな上下関係などあろうはずがない。上級生は大谷を「翔平、翔平」と言って可愛がり、大谷のほうは年上のお兄ちゃんたちを君付けで呼んで、一方的にライバル意識を燃やしていた。練習でピッチャーをやらせてもらって、年上にいい当たりを打たれれば、それを悔しがった。

「打たれて、悔しかったのかな……でも、悔しさよりも次の週末が待ち遠しいという気持ちのほうが強かったと思います。走ったり、連休がずっと練習だったりとキツいこともありましたけど、それをイヤだなと思ったことは一度もありません。あの頃は水泳もやっていて、それも楽しかったけど、自分の中ではゆくゆくやっていくのは野球だろうなと思ってました」

1個750円の硬球を守るため“翔平ネット”を作ったが…

 いつしか大谷は2学年上の子どもたちと互角に渡り合うようになる。キャッチボールをすれば、みんなが助走をつけて投げ上げ、ツーバウンド、スリーバウンドでやっと届く距離を、立ったまま、ライナーのノーバウンドで投げた。打てば、ライトの向こうを流れる胆沢川にボールをポンポン放り込んだ。1個750円もする硬式球を次々と台無しにされてはかなわないと、大人たちが川の手前に植えられた木の枝に手作りの“翔平ネット”を結び付けた。しかし、それがまったく役に立たないほど、大谷の打球は規格外だった。

「はじめから、ある程度は投げられて、打てて、というところでは、周りよりはできるという自信はありました。でもそれは、それこそ本当に小さい、水沢リトルという小さな枠の中でのことでしたからね。他の子よりできたとしても、それは僕が物心つく前からお父さんやお兄ちゃん、お母さんともキャッチボールをしてきたからでしょうし、早く野球をはじめて、単純にボールを扱ってる時間が他の子たちより長かったからだと思ってました。ただ、最初からあったそういう自信が、その後も継続して積み重なって、さらに広げたいなという気持ちにつながったのかもしれません。ですから、最初の自信というのは大事でしたね」

 低学年のバンディッツ時代から、高学年のパイレーツのメンバーに入って、試合に出た。6年生のときには、岩手県で大谷のボールを打てるリトルの選手はいなかったのだという。バッターとしてもホームランを量産。県大会のホームランダービーでは、各チームで4番を打つ中学1年の選手たちが力んで、15スイング中3本が最高だという中、6年生で11本のホームランを打ってみせた。試合でも、大谷が打席に入ると外野手だけでなく、内野手も下がって守った。大谷の打球が強すぎて、危険だったからだ。

「悔しい経験がないと嬉しい思いもできない」

 水沢リトルは、大谷が5年生のときに東北大会へ初出場。決勝まで進んだものの、あと一歩で全国大会ヘの切符を逃した。そして、6年生のときにはベスト4で敗れてしまう。リトルリーグの試合に出られるのは13歳までなのだが、大谷は中学1年まで試合に出ることができた。その最後のチャンスで、水沢リトルはついに東北大会を勝ち抜き、全国大会への出場権を勝ち取る。大谷は水沢から岩手へ、岩手から東北へ、そして全国という大海へ、初めて泳ぎ出たのである。

【次ページ】 小5、今江敏晃のマネ「窓を見ながらフォームをチェック」

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