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94年生まれ、大谷翔平が思い出す“今江敏晃のマネをしていた野球少年時代”「だから僕は羽生世代ですって」
posted2022/04/13 06:55
text by
石田雄太Yuta Ishida
photograph by
Nanae Suzuki
〈初出:2016年4月14日発売号「回想インタビュー 大谷翔平『僕の少年時代』」/肩書などはすべて当時〉
今や世代のみならず日本球界を牽引する存在となった大谷翔平は子どもの頃、どのような野球を見て育ったのか。故郷・岩手の地に思いを馳せる。
◆◆◆
日韓共催のワールドカップで日本代表が決勝トーナメントまで勝ち進み、日本中がサッカーの色に染まった、あの夏。メジャー2年目のイチローは苦しみながらも2年連続の200安打ヘヒットを積み重ね、ジャイアンツの松井秀喜が自身初の50本へとホームランを量産していた。そんな2002年の夏――1人の少年が野球を始めた。小学2年生の大谷翔平である。
サッカーではなく…「野球をやるのが自然な流れでした」
「自分の周りではサッカー色はそんなに強くなかったですね。そりゃ、サッカーはボール1個あればできますから、昼休みにはみんなでサッカーをやってましたし、学校が終わってからも近所のお兄ちゃんやお姉ちゃん、友だちとやっていたのはサッカーでした。でもサッカーは遊び。真剣にやっていたのは野球です。もちろん野球も遊びですけど、僕の中での野球は一生懸命、真剣に取り組むものだという感覚がありました」
岩手県奥州市を流れる、胆沢川。その河川敷に、水沢リトルのグラウンドがある。東北自動車道と水沢東バイパスに挟まれた、2面のグラウンド。65mのフェンスがあって、1面をメジャー(高学年)のパイレーツ(海賊軍)、もう1面をマイナー(低学年)のバンディッツ(山賊軍)が使っていた。当時、野球をやろうという近所の子どもたちは、ほとんどが小学校のスポーツ少年団に入って軟式野球をやっていたのだが、大谷は小学2年生からリトルリーグのマイナー、バンディッツに入って硬式野球を始めた。父が高校から社会人まで野球をやっていたこと、7つ上の兄が中学で野球部に入っていたこと、母や姉と一緒にいつも兄の応援に通っていたこと……大谷の周りにはサッカーではなく、いつも野球があった。
「だから、野球をやるのが自然な流れでした。はじめて団体で野球をやって、純粋に遊びの野球として、すごく楽しかった。何もない状態からスタートして、できるようになることしかない。だからおもしろかったし、年上のお兄ちゃんたちについていって、負けたくないなと思ってやるのもおもしろかったですね」
上級生に打たれても「次の週末が待ち遠しかった」
ヒョロッとして華奢だった大谷だが、2学年上の子どもたちの中に入っても目立つほど背は高かった。ちょっとやってみるかと言われて外野を守れば、フライをスポッと捕ってみせたり、走らせれば年上の子より足が速かったり、ボールを投げてみれば行き先はメチャクチャでも、強いボールを投げられた。2年生の野球はボール遊びの延長ではあったが、そんな中でも大谷の能力は抜きん出ていた。大谷が当時を振り返る。