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15年前、原巨人はなぜ上原浩治を“守護神”に指名したのか? 試運転のつもりが、驚異の32セーブ…制球力はメジャー時代を上回っていた
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph bySankei Shimbun
posted2022/04/07 06:00
2007年に上原浩治が挙げた32セーブは当時の球団新記録。20勝を挙げて、30セーブを記録した投手は江夏豊に次ぐ史上2人目の快挙だった
上原がブルペンに回ったのは、あくまで先発に復帰するまでの試運転の意味合いだった。シーズン最初の登板となった4月30日のヤクルト戦、5月1日の中日戦とセーブがつかない状況で9回に投げた。続く2日の中日戦は、延長戦にもつれ込み、11回表に巨人が勝ち越すと、その裏には上原がマウンドに上がり、プロ初セーブをマークする。この勝利はちょうど、巨人が球団創設以来5000勝となる記念すべき試合でもあった。
先発にこだわってきた上原だったが、自慢のコントロールを武器に、不用意な四球もなく、クローザーとして安定した投球を披露していた。5月下旬にはそれまで抑えを務めていた豊田清が8回、上原が9回に回る体制となり、この月だけで5セーブをマークした。
「5月中旬に、たしか監督室に呼ばれて、『ウエ、オールスターまでは後ろでやってくれないか』と頼まれたんです。僕としては、監督からそう言われたら、分かりました、と答えるしかないですよね。ちなみに巨人では、みんなから『ウエ』と呼ばれてました。『コウジ』と呼ぶのはメジャーの人たちと、桑田(真澄)さんだけです(笑)。この話し合いまで、ブルペンから出ていくのは先発復帰までの試運転のつもりだったので、5月2日以降は連投しないことになっていたんですが、ここからは連投もOKということになりました」
オールスター以降も「守護神」として
そして5月26日の楽天戦、27日のオリックス戦と上原は連投し、名実ともに巨人の「守護神」となった。約束となっていたオールスターまでに14セーブをマークしたが、結局、先発への復帰は見送られることになった。
「チーム事情というものがありますからね。クローザーとして負けがついたのはひとつだけでしたし、原さんとしてもいい流れを維持したいこともあり、後半戦も後ろで、ということになったんでしょう」
シーズンを通して落合博満率いる中日との鍔迫り合いを繰り広げた巨人。最終的には1.5ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす。この年から導入されたクライマックスシリーズではその中日に3連敗を喫し、日本シリーズ進出は逃したものの、シーズンを通しての上原の投球内容は圧巻だった。
55試合登板、62イニングを投げ、4勝3敗32セーブ、防御率1.74。特筆すべきは、奪三振は66を数える一方、与えた四球はわずか4つだったことだ。スタッツの先進国、アメリカで重視される三振と四球の比率は16.5対1。上原はメジャーリーグに移籍してから、12年のレンジャーズ時代に14.33、レッドソックスに移籍した13年に11.22の数字を残しているが、それを上回る制球力を見せていた。
アメリカでは「稀有な制球力の持ち主」と称されたが、07年のクローザー時代にその萌芽は見えていた。