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15年前、原巨人はなぜ上原浩治を“守護神”に指名したのか? 試運転のつもりが、驚異の32セーブ…制球力はメジャー時代を上回っていた
posted2022/04/07 06:00
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph by
Sankei Shimbun
1995年に巨人のユニフォームを脱いだ原辰徳が、メディアでの仕事を経て、一軍野手総合コーチとして球団に復帰したのは99年のことだった。
その年、上原浩治は巨人に入団。ふたりの人生が交錯し始めた。
上原はルーキーでいきなり20勝をあげ、セ・リーグの最多勝をマークするセンセーショナルな活躍を見せたが、当時の原を次のように振り返る。
「原さんの担当は野手だったこともあり、管轄はちょっと違ったんですが、コーチ時代から選手と話すことをとても重視していたと思います。その姿勢は、2002年に監督になられてからも変わらなかったですよ。日本とアメリカ、いろいろな監督の下でプレーしましたが、間違いなく『対話型』の監督だと思います。選手とコミュニケーションを取ることで、チームの雰囲気作りを重視していたんじゃないですかね」
先発復帰のための“試運転”だった
監督1年目の原は、上原を開幕投手に指名。このシーズンの上原は好調を維持し、17勝を挙げて2度目の最多勝投手となり、レギュラーシーズンの優勝に貢献。西武との日本シリーズ第1戦でも松坂大輔と投げ合って勝利投手となり、このシリーズ、巨人は西武を4タテで下して日本一に輝いた。上原はシーズンを通して巨人の屋台骨を背負った。
この後のシーズンも上原は開幕投手を務め続けたが、転機を迎えたのは、原体制2期目の2年目、07年のことだった。3月15日に左太もも裏、ハムストリングを痛めて開幕絶望となってしまったのだ。
「原さんからは『あまり気にしないで、しっかり治してから一軍に戻ってきて欲しい』と言われてました。どうにかゴールデンウィークのあたりに復帰のメドが立ち、ファームで試運転してからという話もあったんですが、僕は二軍で投げても気持ちが入らないタイプだと見抜かれていて(笑)。『どんな形であれ必要だから、先発できるようになるまで、ブルペンで投げて欲しい』ということで、最初は1イニング限定で、一軍で登板することになったんです」