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関根潤三が審判に「お前センスないから、他の仕事紹介してやろうか?」4位、5位、4位…野村克也以前のヤクルトはどんなチームだった?
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2022/03/25 17:06
1987年~89年までヤクルトの監督を務めた関根潤三。4位、5位、4位と成績は振るわなかったが、当時のチームはどんな雰囲気だったのだろうか?
「肩書は作戦コーチでしたけど、“とにかく、関根さんをサポートしなければ”という思いでした。試合中に関根さんから、“アンちゃん、ここはどうしよう?”って聞かれることがあるんですけど、僕はA、B、Cと3案ぐらい出して、関根さんの判断に任せていました」
安藤から見た「関根監督」は、常に穏やかな物腰で、激高するところを見たことがなかった。しかし、内面にある「厳しさ」は常に感じていたという。
「水谷新太郎というベテランがいました。彼はいいショートなんだけど、すぐに故障する。いつも、“ここが痛い、あそこが痛い”と口にしていた。そこで関根さんは“一度、ゆっくり治してきなさい”とファームに落とした。でも、そこからずっと一軍に上げないんです。他のコーチに、“そろそろ一軍に呼びましょう”と言われても頑なに拒んでいました」
就任3年目のシーズンを前に、春季キャンプのメンバー選考を行っていたときのこと。関根が口にしたひと言を安藤は今でもハッキリと覚えている。
「アンちゃん、もうそろそろいいかな?」
このとき、関根は水谷を一軍キャンプに帯同させることを決めたのだという。
「明らかに水谷の態度が変わりました。それからは、“痛い”と口にすることはなくなりました。このときの出来事は、その後、彼が指導者になったときにも役に立っていると思いますね」
審判に「お前、センスないから、他の仕事紹介してやろうか?」
こうした関根の厳しい姿を目の当たりにして、自身の教訓としたのが当時売り出し中だった池山隆寛だった。水谷のポジションを奪い取り、レギュラーとなった池山は少々の故障では決して休もうとしなかった。レギュラー選手ならば、どんなことがあっても、試合に出続けること。プロとしてのあり方を池山は間接的に学んだのだ。
また、穏やかな物腰でありながら、内面には「厳しさ」に加えて、「毒」もあったという。安藤の口元から白い歯がこぼれる。