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関根潤三が審判に「お前センスないから、他の仕事紹介してやろうか?」4位、5位、4位…野村克也以前のヤクルトはどんなチームだった?
posted2022/03/25 17:06
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Sankei Shimbun
安藤統男――12年にわたる現役生活は阪神タイガースで過ごした。引退後の1974年から84年にかけては阪神の二軍監督、一軍監督などを歴任。掛布雅之をスター選手に育て上げた。また、「史上最強助っ人」の異名を誇るランディ・バースは「ミスターアンドウは、日本で唯一オレが尊敬してやまない監督だった」と述懐している。
そして、現在でもスポーツ報知の解説者として、関西を拠点として主に阪神戦の評論活動を行っている。現在82歳となった安藤の野球人生は黄色と黒の縦じま模様のユニフォームとともにあった。しかし、そんな彼が一度だけ、阪神以外のピンストライプのユニフォームに袖を通したことがある。
1987~89年の3年間、彼は作戦コーチとしてヤクルトスワローズのユニフォームを着て戦った。当時の指揮官は関根潤三。関根からのオファーを受け、安藤は甲子園球場から神宮球場へと、戦いの場所を移したのである。
「関根さんからは、“今度ヤクルトの監督を頼まれているんだけど、アンちゃん、手伝ってくれない? ちょっとチームを変えたいと思っているんだ”と言われました」
このとき関根は「コーチとして」ではなく、「相棒として手伝ってくれ」と語ったという。以来、関根が退任する89年オフまで、安藤は参謀として、相棒として支え続けたのである。そんな安藤に当時の話を聞いたのは、彼が住む兵庫県宝塚市だった。
“ここが痛い、あそこが痛い…”ファームに落とされたベテラン
「こんな遠いところまで、ようこそ。関根さん時代は僕にとっても忘れられない、とても勉強になった思い出深い時代でした。あの頃はファーストが杉浦(享)、セカンドが渋井(敬一)、サードはレオン、ホーナー、デシンセイがいたね。で、ショートがイケ(池山隆寛)、レフトは若松(勉)だったけど故障をして、荒井(幸雄)になってね……。センターが栗山(英樹)で、ライトがトラ(広沢克己)だったかな?」
開口一番、当時のメンバーの名前がスラスラと出てくる。82歳となった今も、記憶は確かで、その語り口はしっかりとしている。