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《命日》「その一球に根拠はあるのか?」「相手を褒め殺しにして…」野村克也が側近に伝授していた「野球は確率」の真相
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byKyodo News
posted2022/02/11 11:01
1993年日本シリーズ、第7戦まで続いた激闘の末に宿敵・西武を下し、胴上げされる。
ID野球が通用しなくなりつつある?
最後に橋上が興味深いことを口にした。
「かつて革命をもたらしたID野球も、最近では通用しなくなりつつあるんです……」
橋上が例として挙げたのが、ヤクルト時代の'92年日本シリーズ第7戦の失敗から誕生した「ギャンブルスタート」だった。
「三塁に走者がいるケースで、打球の方向や高さに関わらず打者がボールを打った瞬間に走り出すギャンブルスタートは確かに革命的な走塁でした。でも、最近では相手バッテリーが牽制球を挟んできたり、捕手が三塁に投げる振りをしたりするなど警戒され過ぎて使えなくなりつつあります」
あるいは、「ピッチャーがキャッチャーのサインに首を振ったケースでは、牽制球の心配はないから走者を走らせる」という野村の教えも、「首振り牽制」が当然の防御策となった現在では無効となった。
いまや野村の教えは12球団の常識。
どうして、こんなことが起こったのか? 橋上の答えはシンプルだった。
「野村さんのミーティングを受けた人たちが、ほぼ12球団に満遍なく行きわたったからですよ。野村監督の教えは今では野球界の常識となっているんです」
'20年シーズンは、ヤクルト・高津臣吾、阪神・矢野燿大、中日・与田剛、西武・辻発彦、楽天・三木肇、日本ハム・栗山英樹監督が野村の教え子であり、侍ジャパン・稲葉篤紀も含めると7人が指揮を執っている。こうした現実を踏まえて橋上は言う。
「野村監督の功績はいろいろあります。でも、『監督が遺したものは?』と聞かれたら、私は『人材だ』と答えます。そして、監督は私に対しては人生を豊かに過ごしていく術を遺してくれました……」
野村克也は滅びない。
野村の参謀を務めた三者全員に共通していたのが「叱られてばかりでほとんど褒められたことがなかった」という言葉だった。その一方で、「人間らしい人だった」「情の人だった」と誰もが口にした。
ヤクルト監督就任と同時に、野村は「ID野球」という革命を野球界にもたらした。
伊勢孝夫はそれを「ミーティング野球」と言い、松井優典は「目指すべきゴールの一過程」と感じ、橋上秀樹は「今ではすでに常識となり、もはや通用しなくなりつつある」と口にした。
野村の死後、彼が生前に遺した「投手分業制」「クイックモーション」「ギャンブルスタート」、そして「ID野球」が改めて注目された。しかし、野村が遺した財産はこうした戦術面だけではない。伊勢、松井、そして橋上に代表される多くの優秀な人材を球界に遺した。野村の財産を継承し、次世代に伝えていくのは彼らの役目だ。
ID野球に象徴される野村野球が正しく伝わっていく限り、野村克也は滅びない。野村の教えは日本球界の財産としていつまでも生き続けるのだ――。
伊勢孝夫Takao Ise
1944年12月18日、兵庫県生まれ。近鉄、ヤクルトでプレーし現役引退後、'81年からヤクルトのコーチに就任。野村のもとで一軍打撃コーチとして'93、'95年の日本一達成に貢献した。
松井優典Masanori Matsui
1950年6月26日、和歌山県生まれ。南海、ヤクルトで活躍。引退後、ヤクルトのマネージャーを務め'94年からコーチに。'95、'97年の日本一に貢献。阪神、楽天でも野村を支えた。
橋上秀樹Hideki Hashigami
1965年11月4日、千葉県生まれ。'84年ヤクルト入団。'93、'95年日本一を経て、'97年日本ハム、'00年阪神に移籍。引退後、'05年から野村の監督就任に合わせ楽天コーチに。
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