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《命日》「その一球に根拠はあるのか?」「相手を褒め殺しにして…」野村克也が側近に伝授していた「野球は確率」の真相
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![長谷川晶一](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/7/1/-/img_71a5d6024258ffe9193aa439dac5161b12286.jpg)
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byKyodo News
posted2022/02/11 11:01
![《命日》「その一球に根拠はあるのか?」「相手を褒め殺しにして…」野村克也が側近に伝授していた「野球は確率」の真相<Number Web> photograph by Kyodo News](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/7/7/700/img_773ddcef1b0f51ea0cf807a582d1db43150335.jpg)
1993年日本シリーズ、第7戦まで続いた激闘の末に宿敵・西武を下し、胴上げされる。
韓国にも伝わっていた「野村ノート」。
キャンプ序盤のミーティングでは、徹底的に人生論、人間論、仕事論、プロ論を説かれた。それからようやく、実戦的な戦術や作戦、相手投手、打者への対策が練られた。
伊勢が今でも覚えているのは「強い敵と戦うときの3つの策」だ。
「強い敵と戦うには3つの策があると、ノムさんはよく言っていました。それは、徹底的に相手を褒め殺しにして油断させる《増長の策》。次は、寝た子は起こすなとか、触らぬ神に祟りなしといった《敬遠の策》。そして最後は、ノムさんお得意の《挑発の策》。長嶋(茂雄)さんや、森(祇晶)さんに対してとった策やね」
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野村の下で野球を学んだ伊勢は、その後も古巣の近鉄を皮切りに、巨人、韓国プロ野球のSKワイバーンズと、各球団で「野村野球」の伝道に努めた。
「野村さんのミーティングを経験しているので、近鉄でも、巨人でも、内容が浅くて、『こんなんミーティングちゃうで』と思ったな。驚いたのは、韓国球界にも『野村ノート』が伝わっていたこと。ノムさんが阪神時代に配布したノートをどこからか入手していて、それを僕が解説しながら、通訳が選手たちに伝えていたんだよね」
ID野球の命名は本人ではない。
今もなお「ノムさんには多大な影響を受けている」という伊勢に、最後に問う。
――野村克也が球界に遺したものは?
しばらく考えた後に、伊勢は言う。
「ノムさんの名言、《勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし》じゃないかな? 頭を使えば、弱者でも強者に勝てるのが野球や。弱者には弱者の戦い方があることを教えてくれたのがノムさんやった。それは球界の財産、遺産やな。僕自身、大病もしたけど、こうして今でもユニフォームが着られるのはノムさんのおかげやね」
「ID野球=野村克也」という等式が一般的だが、このフレーズの名付け親は野村ではない。野村の懐刀として長年にわたって彼を支えてきた松井優典が述懐する。
「あれは'90年1月のことでした。毎年この時期にセ・リーグの監督会議があって、この会議ではその年の各球団のスローガンを発表するんです。当時の僕は一軍マネージャーでしたから、常に野村さんと一緒でした。それ以前から野村さんに『何かいいフレーズはないか?』と言われていたので、いろいろ考えて、『データを活用するという意味のいい言葉はないかな?』と球団通訳に相談したら、『Import Data』という言葉が出てきました。当時は『ICチップ』や『IDカード』というフレーズが流行っていたので、『ID野球にしよう』と野村さんに提案したんです」