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「この体のどこが悪いんだ」 長野五輪直前に胃がん発覚、壮絶な闘病生活…25歳で他界した“伝説のモーグル選手”を覚えているか?
text by
石井宏美Hiromi Ishii
photograph bySankei Shimbun
posted2022/02/18 11:00
長野五輪直前で胃がんが見つかった森徹さん。転移が進む中で、里谷多英の金メダルを現地で見守った
長野五輪シーズン後、敏さんは弟が亡くなる直前まで、少し体を動かしてトレーニングしながら自宅と病院を行き来し、かけがえのない時間を過ごした。徹さんの体調が安定していた7月3日、合宿に参加するために一度、病院を後にするときに交わした言葉、『じゃあトオル、行くわ』『おう』、それが最後の会話になってしまった。
胃がん判明から約10カ月後の98年7月4日、徹さんは永眠した。
「合宿から帰ってきたらまた会えると思って別れたんですよね」
合宿先の札幌に向かうフェリーの中で訃報を聞き、言葉を失った。「心にぽっかり穴が空いた」。大切な存在を失った喪失感がしばらくの間、敏さんの心を占拠した。
最後まで全力で生き抜き、競技への復帰と夢であるオリンピック出場を目指して闘っていた弟の姿は、その後の敏さんの大きな活力になっている。長野五輪で引退を考えながらも、02年ソルトレークシティ五輪を目指したのもやはり、弟の存在があってこそだった。
「(オリンピックは)弟がどうしても行きたかった場所で、でもそれを実現することは出来なかった。当時は26~27歳で選手を引退する時代で、自分も漠然とそれぐらいで辞めるんだろうなと考えていました。長野五輪は26歳で出場しましたが、年齢的に考えて、次の五輪はないだろう、と。ただ、闘病中、弟が4年後の2002年ソルトレークシティ五輪を目指すと言っていましたから、徹が目指すのなら自分もという気持ちに変わっていきました」
成績が芳しくなく、フラストレーションを溜めていた時期でもあったが、気にならなくなった。敏さんは以前にも増してスキーに夢中になっていったという。
「第2のスキー人生の方が、成績が良かった」
「そう思って日々を過ごしていくなかで私の競技人生はピークを迎えました。長野五輪後の、第2のスキー人生の方が、成績が良かったんです。ソルトレークシティ五輪までの4年間はいろいろありましたが、充実かつ貴重な時間を過ごせた。それは本当に弟のおかげだったと思います」
徹さんが亡くなった直後のシーズン、1999年3月のW杯ポーランド大会では自身最高の個人2位となり、同年の世界選手権では個人で6位入賞を果たした。
「いろいろな思いがあって臨んだシーズンだったので、いろいろな感情がありました。その年が私の競技人生で一番成績が良かったんですが、世界選手権のときは競技後、我慢していたものがすべて弾けて、夜中にわんわん泣いてしまいましたね」
02年ソルトレークシティ五輪では、徹さんの写真を胸ポケットに。団体のクロスカントリーのとき、敏さんは心の中でこうつぶやきながら徹さんと共に走っていたという。
「コース最後の登りで『トオル、トオル、トオル』と言いながら走っていたんです。『1、2、1、2…』という走るリズムと、『トオル、トオル』がちょうどいい語呂で合っていて(笑)。『トオル』と置き換えて走ると、いつも以上に力が出たんです。
ここぞという時のラストスパートではいつも『トオル、トオル』と心でつぶやきながら走っていました。ソルトレークシティでは一番力を込め、最後にダッシュした思い出があります」