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「この体のどこが悪いんだ」 長野五輪直前に胃がん発覚、壮絶な闘病生活…25歳で他界した“伝説のモーグル選手”を覚えているか?
posted2022/02/18 11:00
text by
石井宏美Hiromi Ishii
photograph by
Sankei Shimbun
あれから6度目の冬季五輪で熱戦が繰り広げられている。
そんなこの時期になると、ある伝説のフリースタイルスキーヤーを思い出す。モーグルで五輪出場を目指していた森徹さんのことを――。
里谷多英がモーグルで冬季五輪日本人女性初の金メダルを獲得した1998年の長野五輪。24年前、徹さんも里谷が脚光を浴びたその大舞台で、得意の『ヘリコプター』を披露しているはずだった。持ち味のスピードのある切れのいいターンで観客を沸かせているはずだった。
しかし――五輪は幻となった。彼は本来いるべきゲレンデの斜面ではなく、病室のベッドにいた。そして、その夏、25歳の短い生涯に幕を閉じ、天国へと旅立った。
さみしがりやで人で賑わう場所が大好きで、人が好きだった。目立ちたがりやで人懐っこく誰からも愛されていた。人生を全力で走り続けた徹さんは、命のともしびが燃え尽きるまでモーグルを愛し、病と闘い抜いた。
祖父も父も兄もスキー選手
数多くのスキー選手を輩出している長野・野沢温泉村の老舗旅館の三男として徹さんは生まれた。祖父の敏雄さんはジャンプ、父・行成さんはアルペンの五輪代表候補で次兄・敏さんは長野五輪のノルディック複合団体で5位入賞、2002年のソルトレークシティ五輪にも出場した。長兄の晃さんも現在長野県スキー連盟の競技本部長を務めるなど、スキー一家で育った。
幼い頃から徹さんはアルペン選手として活躍していたが、高校時代までは目立つ戦績はなかった。転機は高校3年生のとき。テクニックを生かせるモーグルへ転向したことだった。
コブが設けられた急な斜面を降りながらエアトリックを行う。独創的な滑りやジャンプを繰り広げるモーグルに徹さんは魅了された。
アルペンで培った抜群のスキーセンスと天性の才能に恵まれた滑り。ナショナルチームで長野五輪出場の枠を争うライバルとしてしのぎを削ったプロスキーヤーで、94年リレハンメル五輪・長野五輪にも出場している三浦豪太氏も一目を置いていた。
「滑りがすごくきれいでしたね。しっかりと芯が通っているというか。モーグルの選手は上半身をブラさずに滑ることが命題なのですが、しっかりとしたコブの吸収動作も深くスムース、膝の上り方もきれいで上半身が本当に安定していた。アルペン選手だったのでスキー操作はうまかったんでしょうけど、コブの吸収のタイミングはやはり天性のもの。そういうスキーセンスを感じていたから、僕も彼に対しては何かと“負けたくないな”と思っていましたよ」
徹さんは18歳でモーグルの本場カナダへ留学すると、めきめきと頭角を現し、94年には国内大会で優勝。モーグル界の新星と注目された。95年に全日本ナショナルチーム入りを果たし、96年ノースアメリカンカップ・ディアバレー大会で優勝。97年には世界選手権27位、全日本選手権4位に。代表が正式に決まるのは97年の12月だったが、夏の海外合宿も好調で、限りなく長野五輪代表へと近づいていた。
「地元開催ですから、出場して目立ちたいです」と目をキラキラ輝かせながら、長野五輪出場へ熱く語る徹さんの姿が映像で残っている。
しかし、過酷な運命が彼を待ち受けていた。
海外合宿を終えて帰国し、念のために受けた人間ドックで胃がんが見つかったのだ。しかも、進行の早いスキルス性だった。