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「この体のどこが悪いんだ」 長野五輪直前に胃がん発覚、壮絶な闘病生活…25歳で他界した“伝説のモーグル選手”を覚えているか?
text by
石井宏美Hiromi Ishii
photograph bySankei Shimbun
posted2022/02/18 11:00
長野五輪直前で胃がんが見つかった森徹さん。転移が進む中で、里谷多英の金メダルを現地で見守った
両親とともに医師から説明を受けた徹さんは、興奮して立ち上がり、Tシャツをまくり上げ、「この体のどこが悪いんだ」と叫んだという。
長野五輪には間に合わない。徹さんにとって人生そのものだった夢の五輪を、中途半端な理由で諦めさせることはできないと考えた両親は告知を決意。病気を隠していたら無理をしてでも練習に行ってしまうと思ったからだ。
夢の舞台に手が届くところに近づきながら、奈落の底に突き落とされるかのような残酷な宣告。その絶望感は到底、推し量ることはできない。
「僕は海外合宿に出発する前日に徹がひどい病気だということを聞いたんです。衝撃的すぎてあまり何を話したかはっきり覚えていませんが、徹とは『できることをやろう』というような話をしたと思います。その時点ではお互いまだ長野五輪に間に合うという気持ちの方が強かった。手術で悪いところを取れば、またすぐに競技に戻れる……と」(敏さん)
告知から約2週間後、手術が行われた。しかしがんは予想以上に広がっており、一部の切除に留まった。その結果を伝えられた敏さんは「放心状態で何も考えられなかった」という。一方、徹さんは早くも復帰に向けてのスケジュールを描いていた。
「長野には出られないけど、次のソルトレークシティ五輪を目指すという話をしていました。決して悲壮感漂ったものではなく、“今度は自分がみんなを感動させたい”と前向きなものでしたね」(敏さん)
手術から2週間後には、病院の階段を上り下りするなどトレーニングまで始めた。
もう一度、輝く舞台に戻って見せる――。
そんな弟の姿に、兄も気持ちが奮い立たないわけがなかった。
「弟のためという思いもそうですが、手術後は家族全体が落ち込んでどん底状態。当時、私自身は競技で結果が出ずに悩んでいる時期でもありましたが、もうそんなことは言ってられないな、と。一心不乱に長野オリンピックに向かっていました」
里谷多英の滑りを見守った徹さん
空が青く澄みきっていた98年2月11日、長野五輪フリースタイルモーグル女子決勝。徹さんは男子代表選手らとともにゴール下で、里谷の金メダルの滑りを見守っていた。
手術から5カ月。すでにがんは転移し、抗がん剤などを投与していた。そんな状態の彼が会場に姿を見せたことは奇跡に近いことだった。
どうしても最高の舞台を自分の目に焼き付けたい。そんな思いが自然と足を向かわせた。さらにその後、兄が出場するノルディック複合団体ジャンプも現地で観戦した。そして、敏さんは弟が見守る中、渾身のジャンプを見せたのだった。
病との一進一退の戦いが続くなか、長野五輪が閉幕して間もない1週間後の3月1日には、福島・猪苗代町で行われた全日本モーグル選手権に出場した。コースアウトや転倒が続出する中、徹さんは予選で正確なターンの連続とエアトリックを見せ、ゴールへと飛び込んだのだった。
「猪苗代のコースはW杯などでも使用される最大斜度が40度以上ある難コース。スタートを切るだけでも怖いんですよ」
里谷の金メダル祝勝会で病名を告げられていた三浦は、自身のスタート時間の関係で徹さんの滑りを残念ながら生で見ることはできなかったが、完走したことを聞き、心底驚いたという。
徹さんの体は痩せて筋肉は落ち、スキー靴はぶかぶか。お腹を壊さないよう、朝から食事を抜いて水も飲まなかったが、スタート直前まで何度もトイレに駆け込む。到底スキーができる体調ではなかった。そんな状態で完走できるとは思えなかった。それでも徹さんは見事最後まで滑り切った。完走に喜ぶどころか、どこか納得がいかない様子でレースを振り返っていたという。
「徹は完走に満足するわけでもなく、『あのジャッジはおかしい』とか『もっと点数が出るはずだ』と言っていました。“自分には次がある”という気力で滑った1本だったと思います。負けず嫌いな……やっぱり根っからの“競技者”なんですよ」(敏さん)
激痛や幻覚症状に苦しんだ闘病最後の頃はさすがに弱音を吐いたというが、徹さんは常に明るく振舞った。そんな弟を敏さんは慮る。
「身体がつらいことよりも、徹にとっては何よりも身体が動かないことややりたいことが出来なかったことが本当につらかったと思います」