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《スキージャンプ》小林陵侑が3年前に語っていた“金メダル宣言”「自分がどうなりたいか、デカすぎてわからない」
text by
折山淑美Toshimi Oriyama
photograph byGetty Images
posted2022/02/12 11:03
伝統のジャンプ週間でグランドスラムを達成した小林陵侑(19年1月)。スキージャンプ男子に24年ぶりの金メダルをもたらした男の“覚醒の瞬間”を振り返る
陵侑が生まれ育ったのは岩手県松尾村(現・八幡平市)。小学校低学年から5歳上の兄・潤志郎に憧れてジャンプを始め、高校まではノルディック複合の選手でもあり、中学時代には史上2人目のジャンプと複合の国内2冠も達成している。
高校卒業後の15年、葛西紀明も所属する土屋ホームに入ると、その翌年1月にはW杯デビューを飾った。W杯札幌大会に備えて帰国していたW杯メンバーの代替出場だったが、7位という期待以上の結果だった。
「あの時は何も知らないので周りの選手を気にしなかったし、調子がすごく良かったので7位になれたんでしょう。でも良かったのはあの1試合だけでした」
その翌シーズンは正規のW杯メンバーになって開幕戦からフル参戦を果たしたが、結果は33位が最高。30位以内に与えられるポイントが年間で0という屈辱を経験した。
「あのシーズンは、自分の感覚が噛み合うことが一瞬たりともなくて、悪循環に入り込んでいましたね。正直、代表を外してもらって日本に帰りたいとも思ったくらい。何かやらなくちゃいけないとか、周りの声や順位といったことを考え過ぎていたのかもしれません。だからシーズン終了後は、周囲から言われて嫌々やっていた遠征中のランニングなどを止めました。試合にいい状態で臨むことをより重視したかったので」
シーズン後の宮古島合宿では、チームメイトでもあり監督、そして陵侑が師匠と慕う葛西から「0ポイント」とも言われた。
「わざと言っているとわかっていても、『くそーっ』と思いましたね」
17年夏にあった「覚醒」の兆し
本人は「そんな悔しさがあったから本気になったんですかねぇ」と惚けるが、五輪シーズンでもある17年の夏から陵侑は覚醒の兆しを見せ始める。
サマーGP白馬大会で兄・潤志郎に次ぐ2位になった際には、「去年のような屈辱はもう一生味わいたくないという気持でやっているから、本当にしっかり体を鍛えてきた。あれ以下はもうないのでドンドン上がっていくだけです」と強気に話していたのが、とても印象的だった。
W杯では前半こそ足踏みをしたが、12月末からは徐々に調子を上げていき、平昌五輪ではノーマルヒル7位、ラージヒル10位とともに日本人男子最高の成績。特にラージヒルの予選で3位につけたジャンプは、周囲に潜在能力の高さを知らしめた。さらに五輪直後のW杯ラハティ大会で自己最高の6位に入っている。
「五輪もそうだったけど、世界の舞台でひと桁のシングル順位になって、自分に足りないものが分かった面もあります。だから、あんまり好きではなかったけど、トップ選手のビデオも見るようにしました。順位はトップに近づいたけど、まだ自分の力や技術は漠然とした状態で、このままだと世界一になれないとしか思えなかったので」