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日本で“消息不明”となった名馬・ファーディナンドが遺したもの…元競走馬たちと五輪選手が目指す未来《GI馬も繋養する新天地》
text by
カジリョウスケRyosuke Kaji
photograph byRyosuke KAJI
posted2022/02/04 11:00
2021年10月、オールド・フレンズ・ジャパンに導入されたGI馬・デルタブルース
原田が日本の競技レベルのさらなる向上のために必要と考えたもの、それは日本人の手による調教とその調教技術の向上だった。原田が生まれ育った30、40年前の時代は「馬」といえば元競走馬。山形でも、大阪でも携わった馬はほとんどが元競走馬だった。ここ近年になって「元競走馬のリトレーニング」という言葉が広く使われ始めたが、競走馬から乗馬への転向、そして馬術競技への出場は昔から当然のように行われていたこと。五輪に出場している原田でさえ、馬術競技用として生産され調教された外国産の乗用馬に跨ることができたのは30歳を過ぎた頃からだった。
調教する技術がなければ馬の才能を見出すことはできない。それは、原田が世界で戦ってきた先人たちから学んできたこと、そう、ミルキーウェイやアサマリュウのような元競走馬を通して蓄積された調教技術に他ならなかった。
「日本には競馬産業があるので、サラブレッド(元競走馬)の力を借りるチャンスがたくさんある。サラブレッドは自分たちが慣れ親しんだ一つのカテゴリー。先が広がるのであればやるしかない。サラブレッドは日本の馬術界にとって必要不可欠」
調教技術の向上をサラブレッドの力を借りて実現していく。ヨーロッパではサラブレッドの馬術への活用はほとんど見られない。しかし、日本ではごく当然のように行われてきたサラブレッドのリトレーニング。その日本特有の素地を活かし、自らが世界の舞台で学んできた技術とを組み合わせ、更に進化させていかなければならない。原田が導き出したものは、馬術競技のサラブレッド活用への回帰、そして引退競走馬産業の活性化の2つを主軸とする構想だった。
ファーディナンドの“悲劇”が生んだ縁
澤井からオールド・フレンズのことを聞いた原田は、帰国後すぐにマイケル・ブローウェンに電話をかけた。何かあてがあったわけではない。ただ、使命感と勢いに駆られた行動だった。2度目の電話でマイケルと繋がると、すぐにオンラインミーティングを開催し、趣旨と熱意をマイケルに伝えた。
「オールド・フレンズの名前を貸して欲しい」
マイケルの答えはOKだった。そして、付け加えた。
「日本からそのような話が出たことが嬉しい」
想いは一緒だった。そもそもオールド・フレンズの発端となったのは、日本に輸出されたファーディナンドが行方不明になったこと。オールド・フレンズの取り組みに関心を持ち、実際に行動に繋げる日本のホースマンが現れたことをマイケルはとても喜んだ。