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日本で“消息不明”となった名馬・ファーディナンドが遺したもの…元競走馬たちと五輪選手が目指す未来《GI馬も繋養する新天地》
posted2022/02/04 11:00
text by
カジリョウスケRyosuke Kaji
photograph by
Ryosuke KAJI
2021年4月、馬場馬術選手でリオデジャネイロ五輪日本代表でもある原田喜市は引退競走馬関連団体のオールド・フレンズ・ジャパンの活動を開始した。オールド・フレンズ・ジャパンは現在ティーハーフ、サンリヴァル、エイコーンパスなどのサラブレッドを繋養し、2021年10月にデルタブルース[04’菊花賞(GI)、06’メルボルンC(豪・GI)]を導入。今後も知名度のある引退競走馬・引退繁殖馬を導入し、その規模を拡大させていくという。馬術選手である原田が、今なぜ競馬のために生産された「サラブレッド」への取り組みに注力しているのか。その背景や、彼が目指す日本の馬事産業の未来について取材した。
三冠馬シンザン血統の馬の世話をして…
原田喜市は1972年生まれ。山形県山形市の西蔵王の乗馬クラブの長男で、6歳から乗馬を始めると、17歳で出場した北海道国体で2位になったことで杉谷昌保に声をかけられ、大阪府和泉市の杉谷乗馬クラブで修業を積んだ。
原田が杉谷乗馬クラブに勤務していた時代にミルキーウェイという一頭の元競走馬に関わる機会があった。1981年北海道静内町生まれのサラブレッド。父シルバーランド、母タイセイランド。父の父は日本競馬史に偉大な功績を残す、あの三冠馬シンザンという血統だ。競走馬時代はシルバータイセイという名前で高橋成忠厩舎で競走馬生活を送った。通算20戦1勝の成績を残し競馬場を後にする。そして、乗馬となり新たにミルキーウェイという名を与えられ澤井孝夫により競技馬になるためのリトレーニングを受けた。
ミルキーウェイは澤井とともに1988年のソウル五輪で67位、1990年のストックホルムの世界選手権で57位。杉谷乗馬クラブに移籍後に1992年のバルセロナ五輪で39位の成績を収めることになる。幸運なことに、原田はこのミルキーウェイの晩年にグルーム(競技馬の身の回りの世話をする人)として関わる経験を得ていた。
“第1回有馬記念の勝ち馬”を母の父に持つアサマリュウ
2000年、原田は28歳の時に岡山国体にむけた強化選手として声がかかり、岡山県佐伯町(現・和気町)の乗馬クラブに移籍。馬場馬術競技に転向するため中俣修に指導を受け、2004年から2007年までの国体4連覇を達成する。原田は中俣に指導を受け、現在の馬場馬術選手としての基礎を築いた。
師である中俣は全日本馬場馬術選手権を10度制すなど日本の馬場馬術界の歴史を作ってきた人物であるが、そのうち全日本の4勝はアサマリュウという小柄な元競走馬による成績だった。アサマリュウはモスクワ大会の日本選手団のボイコットによりあと一歩のところで五輪出場の機会を逃してはいるが、権威あるCHIO Aachenに出場し上位入賞するなど日本の馬術史にその名を残している。
競走馬時代は大井競馬で14戦して7勝の成績を残したオープン馬。父ライジングホース、母アサマミドリという血統のアングロアラブで、母アサマミドリはメジロ牧場創始者である北野豊吉の持ち馬。母の父メイヂヒカリは第1回中山グランプリ(後の有馬記念)の勝ち馬で、1956年の年度代表馬、顕彰馬である。競走馬時代に”いい馬がいる”と知らせを受けた中俣が「ああ、これだ」と思うほどのインスピレーションを受けて引き取った経緯があるという。原田は中俣の指導を受ける中で、世界で戦ってきた経験やアサマリュウという馬のことを耳にしてきていたのだった。