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《春高バレー最長身210cm》体をぶつけるのが嫌で…サッカー少年だった牧大晃がバレーボールと出会った日「変われたのは淵崎先生のおかげ」 

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米虫紀子

米虫紀子Noriko Yonemushi

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posted2022/01/13 11:01

《春高バレー最長身210cm》体をぶつけるのが嫌で…サッカー少年だった牧大晃がバレーボールと出会った日「変われたのは淵崎先生のおかげ」<Number Web> photograph by AFLO SPORT

春高バレーではベスト8で姿を消したものの、圧倒的な高さを武器にインパクトあるプレーを披露した牧大晃(高松工芸高3年)

 小学生の頃はサッカー少年で、ポジションはセンターバック。しかし体をぶつける接触プレーが嫌で、中学ではサッカーは続けなかった。

 中1で身長がすでに180cm台後半だったため、中学の女子バレー部の河田悦司監督に誘われ、中1の夏にバレーを始めた。ただ、男子バレー部がなかったため、女子に混ざって練習した。

 牧がバレーを始めた時、小学5年生だった河田監督の長男・一優(かずひろ)も一緒にバレーを始め、牧の練習相手になった。牧が「カズ」と呼び弟のように可愛がるその少年は、のちに牧を追いかけて高松工芸高に入学。今回の春高で牧とコンビを組んだ1年生セッター・河田一優である。

 牧の身長は中学で約20cm伸び、2mを超えた。河田監督は「海外を目指せ」と言い聞かせ、牧は“海外”を意識するようになった。

 河田監督が、かつて教え子だった高松工芸高の淵崎監督に「大きい子がいる」と連絡し、淵崎監督が練習を見に行ったことから、新たな縁がつながった。

「彼が持っている身のこなしの柔らかさや、純粋にバレーボールがうまくなりたいという気持ち、素直さに魅力を感じた」という淵崎監督は、牧をアウトサイドとして育てたいと思った。

「日本代表のポイントゲッターとして点を取るだけでなく、サーブレシーブやつなぎもできて、動けて、ゲームメイクができる選手に」という将来像を思い描いた。

 牧自身も「おっきいだけって言われたくない」という密かな負けん気と、何でも吸収したいという欲を持っていた。

淵崎監督と追いかけた「夢」

 210cmのアウトサイドとして将来世界に羽ばたくという、壮大な夢に向けた二人三脚が始まった。

 とはいえ、210cmのアウトサイドなど今まで日本にいなかった。育てられるのか。当時30歳だった淵崎監督にはプレッシャーものしかかった。

「宝を、高校バレーの大事な3年間預かるということで、最初はすごく不安ではあったんですけど、逃げないことを決めました」

 腹をくくった。だが常に葛藤はあった。これまで多くの長身選手がそうだったように、210cmという高さを、短い期間でチームの勝利に結びつけるには、守備の負担の少ないミドルブロッカーやオポジットで起用するのが近道だからだ。

「チームとして勝つためには、アウトサイドとして使い続けるより、ミドルやオポジットに入れるということが、優先順位が先に来るのかなと思ったりもしたんですけど、彼の取り組みや持っているものに、僕は中学生の頃から魅力を感じていたので、そこは思う存分伸ばしてあげようと。ミスしてもいいからチャレンジするということを言い続けました」

 技術も実戦経験も足りなかった下級生の頃は、悔しい思いをすることばかりだったと淵崎監督は振り返る。

「ちっちゃくて巧い子たちに、ちょこまかブロックを利用されたりすると、あいつも悔しいけど、僕もめちゃくちゃ悔しいんですよ。バレー感覚が優れている小さい選手たちは、2メートル10センチを利用してやろうって、逆にワクワクして勝負を仕掛けてきますから。動きが遅いからって、ちょんとディグの前に落とされたり、サーブで狙われたり。僕も対戦相手だったらたぶんそう考えますけどね。それを、最終的には見返せるようにと思ってやってきました」

「牧は伸びているのかな?」と不安になることもあった。特に牧が2年生の時はコロナ禍で試合ができない時期が長く続き、不安が募った。久しぶりに練習試合をした崇徳高の本多洋監督や市立尼崎高の藤原和典監督から、「ボールを叩けるようになったな」など客観的な意見を聞けた時は心底安堵したという。

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牧大晃
淵崎龍司郎
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