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98年1月8日「雪の決勝」の当事者が語った“伝説の真実”…帝京のエースが悩む一方、東福岡は「ワクワク感が止まらなかった」 

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細江克弥

細江克弥Katsuya Hosoe

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photograph byKazuaki Nishiyama

posted2022/01/10 11:03

98年1月8日「雪の決勝」の当事者が語った“伝説の真実”…帝京のエースが悩む一方、東福岡は「ワクワク感が止まらなかった」<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

名門・帝京のキャプテンは中田浩二。抜群のゲームメイクで2トップの輝きを引き出した。

「木島さんに負けっぱなし」のサッカー人生。

 千代反田の言葉のとおり、負ける感覚もビビる感覚も、選手たちの脳裏にはまったくなかったのだろう。しかし、おそらく志波監督の心中は違った。不動のシステムだった4-1-4-1に手を加えたのは、この試合が初めてのことだ。他でもない。手島をリベロに据える3バックへの変更を決断した理由は、夏の決勝でその破壊力を見せつけられた木島のドリブルにあった。

「金古は木島、チヨは金杉につけ」

 今となっては笑い話だ。あれだけ待望した木島へのリベンジの機会を、千代反田はあっさりと失ってしまった。

「僕のサッカー人生は、木島さんに負けっぱなしのまま終わっちゃったんです」

 その言葉を、木島に届けた。

「いやいや、優勝したのはそっちなんだから。余裕があるなあ、東福岡は」

現実には、中止の決断は難しい。

 キックオフ1時間前――。

 帝京のエースが「自分を生かす方法」に思いをめぐらせ、東福岡の2年生DFがリベンジの機会を失って肩を落とす一方で、東京都高体連サッカー専門部委員の横田智雄はすでにひと汗かいていた。

 '17年に還暦を迎えた「横ちゃん先生」は、今も都立武蔵丘高校に勤務する現役の教師だ。都内の高校教諭を歴任してサッカー部を指導する傍ら、自身は東京都高体連サッカー専門部の一員として選手権の運営に携わり、その歴史を間近に見てきた。

「あの日、我々運営スタッフは午前8時には国立競技場に入っていました。雪がちらほらと降り始めたのは12時頃。13時を過ぎてから、ドサッと一気に強くなったんですよ。その時点で、全員総出で雪かきをしました。100人以上いたんじゃないかな。わかります? “ママさんダンプ”。雪かきのアイテム。あれをあるだけ引っ張り出してきて、みんなで一斉にね(笑)」

 運営サイドの決断は早かった。'87年にはトヨタカップの「ポルト対ペニャロール」が同じく雪の中で開催されており、おそらくその前例によって視認性の高い黄色のボールが常備されるようになったという。テレビ中継もあるから、現実的には中止の決断は難しい。当時は高校サッカー人気がピークにあり、お客さんもすでに大行列をなしていた。大会本部から正式なゴーサインが出されると、経理担当だった横田はスタジアム内の部屋にこもり、黙々と現金を数えながら運営の無事を願った。

「当時の私は東京の国体チームのコーチでもあったので、帝京のメンバーについてはよく知っていました。雪の影響は、どちらかと言えば“蹴って走る”スタイルを特徴とする帝京に味方すると思いましたね。東福岡はしっかりとパスをつなぐスタイルだったから、この雪じゃちょっと厳しいだろうなと」

【次ページ】 帝京が先制、しかし東福岡は動じなかった。

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