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指導の原点は“ピクシーを叱ったベンゲル” 元名古屋GK伊藤裕二56歳が率いる中部大第一の挑戦「僕らが一番弱いんじゃないかな」
text by
イワモトアキトAkito Iwamoto
photograph byAkito Iwamoto
posted2021/12/23 11:04
2014年に中部大第一高の監督に就任した伊藤裕二。記念すべき100回大会で初の全国選手権へ導いた
1993年のJリーグ、鹿島アントラーズとの開幕戦。ゴールを守る伊藤に鹿島のジーコやアルシンドが襲い掛かる。強烈なシュート、正確なフリーキック、縦横無尽に駆け巡るドリブル。ジーコにハットトリック、アルシンドに2ゴールを決められ、名古屋は撃沈した。
その後、名古屋は低迷。チームに光明がさす契機となったのは、95年のアーセン・べンゲルの監督就任。ベンゲルの短時間に集中して行う質の高い練習やプレーの意義を問い続ける姿勢によって、選手たちの動きや考え方は急速に変化していった。伊藤は今でもベンゲル監督の選手との向き合い方を思い返すときがある。
94年に加入したドラガン・ストイコビッチは攻撃的なプレーからしばしばレッドカードを受けて退場、出場停止処分が続いていた。ベンゲルは選手たちの前でそんなストイコビッチを激しく叱責した。
ベンゲルの怒りの声を静かに聞くストイコビッチ。ビッグプレーヤーだから何をしても許されるわけではない。
後々、事前にベンゲルがストイコビッチに対してチームメイトの前で叱ることをあらかじめ伝えていたと知った。伊藤は言う。
「この選手は皆の前で指摘したほうがいい、あの選手は個別で伝えたほうがいい。選手それぞれの個性を見極めた上で最適なコミュニケーションをとってチームをまとめていく。今もそれは参考にしています」
ベンゲルの下で名古屋は息を吹き返し、95年の天皇杯でチーム初のタイトルを獲得。国立競技場に集まった約5万人の観衆を前に伊藤はキャプテンとして優勝杯を掲げた。
嬉しかったGK楢崎のMVP
翌年、ベンゲルはその手腕を買われてイングランドのアーセナルへ。その後、名古屋は浮き沈みを繰り返しながら、緩やかに下降線をたどった。伊藤も99年に楢崎正剛が加入したことによりポジションを失い、出場機会を求めて湘南ベルマーレへ移籍。2002年の現役引退後は名古屋からアカデミーのコーチ就任の打診を受けて古巣へと戻った。
2008年、監督として名古屋に戻ったストイコビッチに請われ、伊藤はトップチームのGKコーチに就任した。
最初の仕事はかつての戦友、楢崎とともに歩む怪我からのリハビリの日々だった。楢崎の地道な努力による回復と並行してチームも上向き始めた。
2010年には念願だったチーム初のリーグ優勝。そしてGKとしては初となるJリーグMVPに楢崎が輝いた。
「自分ごとのように嬉しかった。報われる思いでしたよ」
時にストイコビッチから「楢崎に練習をさせすぎだ」と小言もいわれた。ただ選手本人が「やりたい」と言えば無理のない範囲でこっそりと練習時間を延長した。
「いいんです。僕が怒られれば済む話ですから」