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93年日本シリーズ第7戦、野村克也は黄色から“ピンクのパンツ”にはきかえた「ゲンを担いで少しでも不安が取り除かれるのなら…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2021/11/27 11:00
1993年10月22日、日本シリーズ開幕前の前日練習で言葉を交わす西武の森祇晶監督とヤクルトの野村克也監督。前年から続く名将同士の“知恵比べ”はついにクライマックスを迎えた
「ヤクルトは脂が乗り切っている」森祇晶が漏らした本音
巨人で過ごした現役時代、コーチとして臨んだヤクルト、西武時代、そして1986(昭和61)年からは監督として日本シリーズの舞台で激闘を続けた。
森祇晶はここまでシリーズ二十連勝という前人未到の大記録の真っ只中にあった。しかし、「常勝球団」と呼ばれ、「西武黄金時代」と謳われた輝かしい時代から、少しずつときが流れていることを敏感に感じ取っていた。デストラーデがチームを去り、石毛宏典、平野謙は30代の後半にさしかかり、否応なくチームの新陳代謝の時期が訪れていた。だからこそ、マスコミに対しては「変革期にある」と、しばしば口にしていた。
それは常勝球団だけが持つ悩みだった。そこで森は決断する。
日本一の懸かった大一番でありながら、ここまでスタメン起用されていた平野謙に代わって、プロ八年目、26歳の山野和明を二番に指名した。そして、五番には23歳の鈴木健を、七番には同じく23歳の垣内哲也をスタメン起用した。
名将と謳われた森ならではの、未来を見据えた意欲的なスタメンオーダーだった。
同時に森はヤクルトの成長も痛切に感じていた。
「正直言って、今年のヤクルトは年齢的にも脂が乗り切っている時期にある」
シリーズ中に親しい記者に対して本音を漏らしていた。
ペナントレースでは優勝までのマジックを「1」としたまま、胴上げまでに実に6試合を要した。これまでの西武には考えられないドタバタ劇だった。長年にわたって西武担当として取材を続けていた中川充四郎は言う。
「それまでの西武にはないもたつき方でしたので、正直言えば心の奥底には多少の不安はありました……」
このシリーズでも、「ここぞ」という場面でなかなかタイムリーヒットが出なかった。第三戦、田辺徳雄の決勝スリーラン、第五戦、鈴木健の代打満塁ホームラン、第六戦、秋山幸二の決勝満塁弾と、華々しい花火は打ち上げていたものの、連打は少なく肝心のタイムリーヒットも少なかった。西武らしい緻密な野球はほとんど見られず、大味な野球が目立っていた。
対するヤクルトは、第四戦の池山隆寛の犠牲フライに象徴されるように、相手の隙を突く嫌らしい攻撃を見せるまでに成長していた。かつて、自分たちがやっていた野球をヤクルトがやっている。野村の指導が随所に行き渡っていることを身に沁みて感じていた。
野村は常々、「西武ナインはみな大人だ。森は腕組みしていても勝てる」と口にしていたが、まったく同じことがヤクルトにも当てはまるようになっていた。