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「『おい、契約金泥棒』とか普通に言われました」95年ドラ1・斉藤和巳、覚醒までの8年〈平成ドラフトのロマン枠〉
posted2021/10/08 11:01
text by
元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph by
KYODO
ドラフト会議と前後して、プロ野球の各球団は支配下選手に対して戦力外通告を行っている。10人の新人を入団させるためには、10人の選手をやめさせなければならない――プロ野球は厳しい世界だ。
今年もすでに多くの選手がユニフォームを脱ぐことが発表された。なかには、まだプロ3年目の選手もいる。かつては「高卒5年、大卒3年」と言われたものだが、選手に与えられる活動期間は驚くほど短くなっている。
もし、いまの日本球界ならば、この選手は生き残ることができなかったかもしれない。2000年代半ばに投手のタイトルを総なめにした斉藤和巳のことだ。
斉藤和巳、勝率8割の「黄金の4年」
80年以上の歴史を誇る日本プロ野球で、名投手と呼ばれた投手は何人もいる。通算勝利数を見れば、400勝投手の金田正一(国鉄スワローズなど)が頂点に立ち、300勝を挙げたのが5人、超一流の基準である200勝を超えた投手が18人いる。斉藤和巳がマークした通算79勝という勝利数は、彼らと比べれば、あまりにも少ない。
しかし、03年に20勝、04年に10勝、05年に16勝、06年に18勝。この間の敗戦の数は16しかない。勝率は8割。最多勝、最高勝率などのタイトルを手にし、沢村賞を2度も獲得。わずか4年間のうちに、プロでマークした勝利のほとんどを積み上げた。1989年から2019年まで続いた平成という時代のなかで、斉藤の挙げたこの数字は燦然と輝いている。
とはいえ、彼が一軍の戦力になるまでには時間がかかった。その間に肩の手術・リハビリも行っている。どこかで見限られてもおかしくはなかった。
95年、高校時代に実績のない“ロマン枠”として入団
そもそも、高校時代に実績として誇れるものはほとんどなかった。
甲子園に出場したことのない南京都(現・京都廣学館)のエースの最高成績は、3年生夏の京都大会。準々決勝まで進んだものの、5回コールド負けを喫している。
福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンク)がドラフト1位指名を敢行したのは、身長が190センチ近くあり、ストレートの最速が143キロの彼を「鍛えれば伸びる素材」と見込んだからだ。
結果的に見れば、95年のドラフト会議は不作だった(7球団が1位で重複した福留孝介は近鉄バファローズからの指名を蹴り、日本生命に進んだ)。その年のドラフト1位で長くレギュラーをつとめたのは中日ドラゴンズの荒木雅博(熊本工業)くらい。即戦力の期待がかかる大学生、社会人に有望選手がおらず、甲子園出場経験のない高校生の将来性にかける球団が増えたのだ。
練習試合・公式戦合わせて73試合、316回3分の2を投げて、21勝12敗。投球イニングを上回る327個の三振を奪っているが、四球は130、死球は26もある。防御率2.47は、高校野球のエースとしては平凡すぎるほど平凡だ。
斉藤は『野球を裏切らない 負けないエース 斉藤和巳』(インプレス)で高校時代をこう振り返っている。