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「『おい、契約金泥棒』とか普通に言われました」95年ドラ1・斉藤和巳、覚醒までの8年〈平成ドラフトのロマン枠〉
text by
元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byKYODO
posted2021/10/08 11:01
2003〜2006年の4年間で、2度の沢村賞を受賞した斉藤和巳。しかし、彼が一軍の戦力になるまでには時間がかかった。
「成績だけ見たら、ドラフト1位でプロに入るピッチャーじゃないですよね。よう獲ってくれたな、ホークス」
おそらく、「オレはあの斉藤からヒットを打ったことがある」と自慢している元球児はたくさんいるだろう。斉藤は3年間で、ヒットを222本も打たれている。
「ヒットを打った人間がたくさんいすぎて、何の価値もない(笑)。高校時代の僕がどんなピッチャーだったのか、数字が証明していますね」
二軍でさえ1試合も投げられなかった「1年目」
95年ドラフト1位で入団したが、彼に与えられた背番号は66。ドラフト1位とは思えないほど大きな番号だ。この数字からは、「将来、活躍したら変えればいい」という球団の思惑が透けて見える。
「66番に決まったと聞いたときは、正直、ショックでした。24番、34番が空いていたので、どっちかなと思っていたのに……。その頃、ドラフト1位でそんな番号を付ける選手はほとんどいなかったから。
それも同期入団の高卒ルーキーが66、67、68と続くんで、もうがっかりして……。のちのち、66番は僕の背番号として認知されたのでよかったですけど、あの当時は『今年のドラ1は体が大きいけど、使いものになるんか』という空気を、球団の人からも報道陣からも感じました」
1年目のテーマは体力づくり。首脳陣も本人もそう思っていた。現実は厳しい。二軍でさえ1試合も投げられなかった。
「肩を痛めて、1試合も投げられなかったんです。故障、リハビリの繰り返しで。自分の肩がルーズショルダー(動揺性肩)だとわかっていながら、特別な練習をせず、痛めて、リハビリの日々。ちょっとよくなったら投げて、投げたら痛くなって……『肩が痛いんで、今日はノースローで』ばかり」
投げることができないピッチャーの仕事は、走ることしかない。野球界では走りこみによってピッチャーとしての基礎ができると思われているのだが、斉藤は地道な練習に背を向けた。
「コーチに『肩が痛いんなら、しゃあないから走っとけ!』と言われても、走るのが嫌いなんで、コーチの目を盗んでさぼったり、本数をごまかしたり」
大物ルーキーはまだまだアマチュア気分が抜けなかった。
「1年目は肩の故障で満足に投げられませんでしたが、肩さえ治れば大丈夫だと思っていました。僕はいまを楽しくしたいという人間で、グラウンドだけしっかりやればいいという考えでした。いま振り返ったら恥ずかしい。アリとキリギリスの童話で言えば、完全にキリギリスでした」