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「『おい、契約金泥棒』とか普通に言われました」95年ドラ1・斉藤和巳、覚醒までの8年〈平成ドラフトのロマン枠〉
text by
元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byKYODO
posted2021/10/08 11:01
2003〜2006年の4年間で、2度の沢村賞を受賞した斉藤和巳。しかし、彼が一軍の戦力になるまでには時間がかかった。
「『おい、契約金泥棒』とか、普通に言われました」
ドラフト会議で指名されたときに188センチだった身長は、プロに入ってから4センチ伸び、192センチになった。
「20歳くらいまで、骨に成長線があったんですよ。レントゲンを見ると、それがわかった。『まだ成長しきってないなあ』と言われていました。実際に、22歳くらいまでは身長が伸びていました。故障のリスクがあるから、あまり投げすぎないようにと言われていたんですが、そういうわけにはいかない」
ピッチング練習をしたくても、球数が制限されている。なるべくなら、走りたくない。当時は、ウエイトトレーニングを積極的に行うピッチャーは少なかった。
「その時期の楽しみは、パチンコ、スロットかなあ。あとは、ほかの選手と食事に行くくらい。体自体は元気だったので、寮を抜け出して博多の街にもよく繰り出していました」
二軍でも登板のないドラフト1位に対する風当たりは強かった。
「当時の先輩はイカツかったんで、『おい、契約金泥棒』とか、普通に言われました。もちろん、冗談半分でしたけど。僕はさぼってるわけじゃなくて、肩が痛くて、投げたくても投げられない」
ちゃかされているとわかっていても、リハビリしかすることのない19〜20歳にその言葉は重かった。
現在では、将来性重視の高校生ルーキーに対して、数年にわたる育成プランを提示する球団もある。だが、20年以上も前に、そんなことをするところはなかった。
「特に何も説明されることなく、ただただ走れ、練習しろ、だけでした。2年目にやっと二軍で14試合、3年目も11試合に投げました。『またか』と言われるのが嫌で、肩の痛みについては言い出せなかった。球団のトレーナーに相談していたんですが、どうにかして投げたかった。痛みをごまかしながらマウンドに上がっていたけど、自分の感覚では投げられない。症状は悪くなるばかりで、最後に『もう限界です』と言いました」
98年秋に右肩の手術を行った斉藤が一軍で戦力になるまでにはさらに時間が必要だった。00年に5勝を挙げてリーグ優勝に貢献したものの、翌年は0勝、02年は4勝に終わっている。エースとして認められた03年は斉藤にとってプロ8年目のシーズンだった。