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藤井聡太12歳と対局した豊島将之が「小学6年の自分より強い」 師匠・杉本昌隆がつないだ《不毛の地》名古屋・愛知の将棋史 

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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photograph by日本将棋連盟

posted2021/09/30 11:07

藤井聡太12歳と対局した豊島将之が「小学6年の自分より強い」 師匠・杉本昌隆がつないだ《不毛の地》名古屋・愛知の将棋史<Number Web> photograph by 日本将棋連盟

王位戦、叡王戦に続き竜王戦でも激突する豊島将之竜王と藤井聡太三冠。2人に縁深い愛知県の将棋史について紹介する

 板谷にとって、在住していた名古屋は「将棋の不毛の地」だったという。実戦で鍛え合ったり研究する仲間は誰もいなかった。新聞の将棋欄で、強い棋士の棋譜をひたすら並べて研究した。本人いわく「愚鈍の一念」で打ち込んで実力をつけた。

 1950年に順位戦でA級八段に昇進。同年の第1期九段戦(竜王戦の前々身棋戦)では準優勝した。

 板谷は愛知県棋界の発展に尽力し、地元の将棋ファンには「大(おお)先生」と呼ばれて親しまれた。1959年に46歳で引退。1970年には念願だった「日本将棋連盟東海本部」を設立し、本部長を長く務めた。

板谷進九段と弟子の小林九段、杉本八段

 板谷進九段は板谷四郎九段の次男である。父親の反対を押し切って奨励会に入り、1962年に21歳で四段に昇段、1974年に順位戦でA級八段に昇進した。「将棋は才能ではない。体で指すもんだ」と語り、懸命に頑張り抜く棋風だった。それだけに体力は人一倍あった。

 息子の板谷も愛知県棋界の発展に尽力した。あるイベントで「100面指し」(100人のアマを相手に順番に指す)を行ったときは、ねじり鉢巻きの姿で100面の将棋盤の前を移動して指し続けたこともある。

 そんな板谷父子は、名古屋に将棋会館を建設することに意欲を燃やしていた。東海出身の棋士がタイトルを獲得することも願っていたのだ。
 
 ところが1988年2月、板谷は急に倒れて緊急入院し、3日後に47歳で急逝した。死因は、くも膜下出血だった。

 弟子の小林健二八段は「先生の弟子たちでタイトルを争う日を、天国から楽しみにしてください」と、将棋雑誌に追悼文を寄せた。同じく弟子の杉本三段は、世話になった師匠と公式戦で対戦し、「恩返し」(弟子が勝つこと)をしたかったが叶わなかった。

 それから30年後の2018年、杉本七段と藤井六段との初の「師弟対局」が実現した。杉本は師匠からもらった扇子(文言は『忠』)を持参して臨んだ。勝負は藤井が勝ち、杉本は恩返しをされた。

「研究会システム」の草分けだった山田九段

 山田道美九段も愛知県で生まれた棋士だった。

 山田は1950年に名古屋から上京して奨励会に入り、翌年に17歳で四段に昇段した。その後も関東に住み続けた。昔のプロ棋界は、棋士同士で研究することはあまりなかった。山田は親しい棋士たちと研究会を開き、ともに切磋琢磨した。現代の棋士が行っている「研究会システム」の草分けだった。

【次ページ】 山田九段の短くも太い棋士人生

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