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「河野太郎はベルマーレ会長だった」「太郎の祖父は4年連続箱根駅伝ランナー」“3代世襲”河野一族はスポーツガチ勢《総裁選》 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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photograph byKYODO

posted2021/09/28 17:03

「河野太郎はベルマーレ会長だった」「太郎の祖父は4年連続箱根駅伝ランナー」“3代世襲”河野一族はスポーツガチ勢《総裁選》<Number Web> photograph by KYODO

写真は1996年、初の衆議院選挙へ挑んだ河野太郎(当時33歳)。神奈川15区から自民党公認で出馬し、当選

 謙三が記録を出した8区は平塚~戸塚間にあたる。この前年、1年生のときにはスタート区間を走り、3年生のときには箱根の山を登る5区でまた新記録を出している。これに対し、一郎は7区か4区しか走らなかった。この区間は小田原~平塚間と、衆院議員となってからの一郎の選挙区にあたるため、後年、「河野一郎は学生時代から選挙を意識して走っていた」と噂されることになる。もっとも、本人に言わせると、当時はまだ代議士になるつもりは毛頭なく、この区間が比較的安易なコースで、自分は選手と監督を兼ねていたのと練習がほかの選手ほど十分ではなかったから選んだにすぎない、というのが真相らしい。

 一郎は早大卒業後、朝日新聞社に入社する。在職中には、このころのスポーツ界を大日本体育協会(体協)会長の岸清一をはじめ帝国大学や官立大学の出身者が牛耳っていたことに反発し、私大出身者が結束して1925年に全日本陸上競技連盟(1945年に日本陸上競技連盟と改称)を創立、初代会長には慶大出身の平沼亮三を一郎が説得して据えている。

“幻の東京五輪”に猛反対した

 朝日新聞の記者として農林省を担当した一郎は、1930年に農村恐慌の実態を取材したのを機に、政界を志すようになる。総選挙に立候補して初当選を果たしたのは1932年である。その前年には満州事変が勃発していた。これにより中国東北部を占領した日本は、さらに周辺地域を支配下に置くべく工作を進めたため、中国側の抵抗が強まっていく。そのさなか、1936年には4年後の東京オリンピック開催が決まる。一郎はこれを喜ぶどころか、中止を訴えた。1937年3月20日の衆議院予算委員会では、当時の林銑十郎首相に対し、満州情勢が「一触即発」の緊張下にあるとする内閣のイデオロギーと、平和の祭典であるオリンピックのイデオロギーは相反するのではないかと、政府の見解を質している。

 同年7月に日中戦争が始まると、一郎はますます気炎を揚げ、五輪反対の急先鋒に立った。そのためにスポーツ界からは猛反発を受け、陸連の評議員など競技団体のあらゆる要職を追われるはめになる。結果的に戦争により経済統制が進むにつれ、政府も東京五輪への支援に消極的になり、1938年7月には開催返上が決まった。一郎はのちに当時を振り返り、《国民が祭りを楽しむなら、全国民がこぞって御輿を担ぎましょう、逆に臥薪嘗胆なら臥薪嘗胆で結構、お祭りは一切やめて、みなで力を出し合おうじゃないか、これが政治というものであると信じていた》と、五輪開催に反対した真意を記している(『河野一郎自伝』)。

五輪担当相になった一郎「マラソンの伴走車に乗せて」

 その一郎が戦後、1964年の東京オリンピックでは五輪担当相を務めることになるのだから、皮肉な巡り合わせである。ただし、息子の河野洋平の記憶では、一郎はこのときも当初は開催に反対だったという。彼のなかでは、もっと先にやることがあるのではないかという考えがあったようだ(小枝義人『党人 河野一郎』)。

【次ページ】 「マラソンの伴走車に乗せて」

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