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「河野太郎はベルマーレ会長だった」「太郎の祖父は4年連続箱根駅伝ランナー」“3代世襲”河野一族はスポーツガチ勢《総裁選》 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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photograph byKYODO

posted2021/09/28 17:03

「河野太郎はベルマーレ会長だった」「太郎の祖父は4年連続箱根駅伝ランナー」“3代世襲”河野一族はスポーツガチ勢《総裁選》<Number Web> photograph by KYODO

写真は1996年、初の衆議院選挙へ挑んだ河野太郎(当時33歳)。神奈川15区から自民党公認で出馬し、当選

一郎「一郎よりいい名前は太郎しかない」

 自民党内の“異端児”だった点は一郎と謙三に共通する。自分の信念を貫くため、ときには大勢に抗うことも辞さない姿勢は、一郎の死後、その跡を継いで衆院議員となった息子の洋平にも受け継がれた。1976年、ロッキード事件が起きると自民党の金権体質を批判して離党、新自由クラブを結成したのはその顕著な例だ。のちに復党した洋平は、1993年に自民党が初めて野党になると総裁を務めた。そのまま次の総裁選に出て当選していれば首相になれたはずだが、このときには戦う意欲を失っており、結局出馬せずに退任する。

 洋平はその後、小渕恵三・森喜朗の両内閣で外相となり、2003年から6年間、衆院議長を務めたのを最後に政界を引退した。この間、1999年には陸連会長に就任、2013年まで務めている。2007年に始まった東京マラソンは、洋平が陸連会長在任中、当時の東京都知事の石原慎太郎と基本合意を結んで実現したものだ。ちなみに洋平の前、24年にわたって陸連会長を務めた青木半治は、早大競走部の監督時代、学生だった洋平に政治的才能を見出してマネージャーとして入部させた張本人である。

 洋平が少年時代からのめり込んでいたことに競馬がある。それというのも、父・一郎が競走馬のオーナーで、競馬だけは恐くて偉大な父親と共にすごせる唯一の時間だったからだ。それは洋平の長男の太郎にも引き継がれた。太郎が幼いころから厳しかった洋平だが、《オヤジが机ひっくり返して怒っているときに、「オークス始まる」と言ったらオヤジの怒りも収まって、二人仲良くテレビを見た》というほど、競馬のことなら父子で話ができた(河野洋平・河野太郎『決断』)。

 競馬という趣味を共有した祖父・父・息子は、サラブレッドのごとく政治家の家系をつなぐことになる。太郎は一郎にとって初めての内孫だった。それだけにかわいがられたという。太郎の名も「一郎よりいい名前は太郎しかない」と一郎がつけたものである。その一郎が首相の座にもっとも近づいたのは、五輪担当相として東京オリンピックを成功させたときだった。それから57年が経ち、2度目の東京オリンピックの直後、今度は孫の太郎が総理総裁の座をつかもうとしていることに、因縁を感じてしまう。

【参考文献】
河野洋平・河野太郎『決断――河野父子の生体肝移植』(朝日新聞社、2004年)
河野太郎『日本を前に進める』(PHP新書、2021年)
河野一郎『河野一郎自伝』(伝記刊行会・編、徳間書店、1965年)​
小枝義人『党人 河野一郎――最後の十年』(河野洋平監修、春風社、2010年)
河野謙三『スポーツと人生』(恒文社、1975年)、『マラソン人生』(日本経済新聞社、1975年)
証言河野謙三刊行委員会・編​『証言 河野謙三』(毎日新聞社、1985年)
橋本一夫『幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで』(講談社学術文庫、2014年)
野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』(小学館文庫、2013年)
森遊机プロデュース・編集『映画「東京オリンピック」1964』(復刊ドットコム、2020年)
沢木耕太郎『若き実力者たち』(新装版、文春文庫、2011年)

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