Number ExBACK NUMBER
「河野太郎はベルマーレ会長だった」「太郎の祖父は4年連続箱根駅伝ランナー」“3代世襲”河野一族はスポーツガチ勢《総裁選》
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byKYODO
posted2021/09/28 17:03
写真は1996年、初の衆議院選挙へ挑んだ河野太郎(当時33歳)。神奈川15区から自民党公認で出馬し、当選
一郎は1962年7月に第2次池田勇人内閣の2度目の内閣改造で建設大臣に就任すると、オリンピック施設の建設とともに高速道路などのインフラ整備に力を注ぐ。建設相から横滑りで五輪担当の国務大臣に任命されたのは、その開幕まで3カ月と迫った1964年7月、第3次池田内閣の内閣改造のときである。このときもあまり乗り気ではなく、抱負を問われても《抱負なんて、ありゃせんよ》とそっけなかった。彼としてみれば《オリンピックの施設は、建設大臣としてやるだけのことはやった。もう、やることはないよ。運営は文部大臣がやればいいんだ。(中略)とにかく、総理からやってくれといわれたので、やるだけで抱負なんていうものははじめからないんだ》との思いであった(『読売新聞』1964年7月18日付朝刊)。
それでもオリンピックのマラソンには強い関心を抱いていた。建設大臣在任中には、コースに内定していた甲州街道について、交通量が多く交通整理が難しいなどの理由から再検討を求めた。このとき一郎は代替案として国立競技場~渋谷~玉川通りを走り、自身の地元である神奈川県内で折り返すコースを提案している。しかし、甲州街道はマラソンには使い勝手がいいコースであることは関係者のあいだでは常識だった。そのため、陸連の幹部の一人が「大臣のおっしゃるコースは高低差が大きいので記録が五輪史上最低になる恐れがある」と訴え、どうにか納得させたという。もっとも、その幹部は実際の高低差など知る由もなく、一郎を説得するためとっさに口にしたらしい。
一郎のわがままはこれだけにとどまらない。マラソンの実施時に伴走車に同乗させてくれと言い出したときも、関係者を困惑させた。伴走車に乗るメンバーは国際陸連の規定で決まっており、たとえ大臣でも無理だからだ。だが、陸連幹部が事情を説明しても「何とか頼む」の一点張りで、やむをえず内密に審判車に乗せた。レース中、一郎は声をからし、涙を浮かべながら日本選手をずっと叱咤激励していたという(小枝義人『党人 河野一郎』)。
幻に終わった首相の座
東京五輪の閉幕とともに首相の池田勇人は病気のため退任し、一郎は続く佐藤栄作内閣では無任所の国務大臣として入閣する。その在任中の1965年3月、市川崑総監督による記録映画『東京オリンピック』を試写で見て、「芸術を重んじすぎて、記録性を忘れた感じだな」と発言し、大きな議論を呼んだ。このため市川崑は世間から激しい批判にさらされる。