Number ExBACK NUMBER

「河野太郎はベルマーレ会長だった」「太郎の祖父は4年連続箱根駅伝ランナー」“3代世襲”河野一族はスポーツガチ勢《総裁選》 

text by

近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

PROFILE

photograph byKYODO

posted2021/09/28 17:03

「河野太郎はベルマーレ会長だった」「太郎の祖父は4年連続箱根駅伝ランナー」“3代世襲”河野一族はスポーツガチ勢《総裁選》<Number Web> photograph by KYODO

写真は1996年、初の衆議院選挙へ挑んだ河野太郎(当時33歳)。神奈川15区から自民党公認で出馬し、当選

 一郎はさらに「記録性を重視した映画をもう1本つくるべきだ」と発言したため、映画の配給元は市川に一般公開前に一部手直しを求める。市川は諦観してこれを受け入れたが、その後、女優の高峰秀子の助言で、一郎と直接3度ほど会って話し合った。最後には一郎も製作関係者の努力を認めると、同映画のプロデューサーに電話で《できあがりに百パーセント満足したわけではないが、自由にやらせてやれ》と伝え、この問題にけりをつけたという(野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』)。

 一郎はその直後、1965年6月に国務大臣を辞任し、翌月、大動脈瘤破裂で急逝する。池田内閣を支えた一郎は、次期首相の座をつかみかけるも、ふたを開けてみれば池田は佐藤に禅譲したため、頓挫した。佐藤内閣を途中で抜けたのは、さらに次を狙ってのものと思われたが、それも突然の死によって幻に終わる。一郎は同年3月に陸連の会長に就任しており、死後、弟の謙三が引き継いだ。

「あなたの国とアメリカが消えれば…」

 河野謙三は、敗戦後、一郎が公職追放になっているあいだ、代わりに総選挙に出て当選し、衆院議員として政界入りした。その後、兄の復帰にともない参院に鞍替えする。謙三もまた、佐藤内閣に一矢報いるため、1971年の参院議長選では、参院自民党の佐藤派を率いる現職の重宗雄三の対抗馬として立ち、自民党の非主流派と野党の支持を集めて当選した。参院議長の在任中にも、陸連会長のほか、1975年からは日本体育協会(体協)会長、また1976年のモントリオール五輪で選手団長を務めるなど、スポーツ界とかかわり続けた。そこへ1980年のモスクワ五輪のボイコット問題が起こる。

 モスクワ五輪のボイコットは、開催国のソ連がその前年にアフガニスタンに侵攻したことに対し、アメリカが制裁のため各国に呼びかけたもので、日本政府も同調した。最終的に、体協と日本オリンピック委員会(JOC)も政府の意向に従い、大会不参加を決議するにいたる。体協会長としてボイコットを受け入れた謙三だが、本心では選手たちをモスクワに行かせてやりたかった。そのために可能なかぎりの手を尽くしてもいる。ソ連大使館を訪ね、駐日大使とも話し合った。このとき彼は、《とにかく、この地球の上からあなたの国とアメリカが消えてなくなれば、世界は平和に、おだやかになるんですよ。なにからなにまで吠え合っているので、うるさくてしようがないですよ》と強烈なジョークで日本の苦しい立場を訴えたという(『証言 河野謙三』)。

【次ページ】 一郎「一郎よりいい名前は太郎しかない」

BACK 1 2 3 4 5 NEXT
河野太郎
河野洋平
河野一郎
高市早苗
岸田文雄
湘南ベルマーレ
ベルマーレ平塚
田中角栄
河野謙三
東京五輪
オリンピック・パラリンピック

陸上の前後の記事

ページトップ