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「日本サッカーの父」クラマーを連れてきた“知られざる丸腰の留学生”とは《革命的な“止める・蹴る”とメンタル指導秘話も》
text by
出嶋剛Takeshi Dejima
photograph byTakuya Sugiyama
posted2021/09/24 11:05
日本サッカーの父であるデットマール・クラマー。「止める・蹴る」など、その指導法は今も継承されている(2003年撮影)
ほぼ丸腰、頼ったのはなんと陸上関係者だった
ただ、依頼された側は大変だ。
当時の日本協会は戦後の国際的な孤立状態からほぼ変化がなく、西ドイツにもパイプがなかった。めぼしい候補者がいたわけでもない。選手と一緒に動けるくらい若い人物で、月給は普通に日本で生活できる程度を支払う。そんな条件面だけを伝えられ、成田氏はほぼ丸腰でドイツへと飛んだ。
ドイツ連盟にどう話を持ち込むか。成田氏が頼ったのは陸上関係者だった。
前年に日本で開催された陸上大会で来日した西ドイツ選手団の通訳を務めていたこともあり、団長のホルンバーガー氏と信頼関係を築いていた。初めから勝算があったわけではなかったが、休日にホルンバーガー氏の自宅に招かれた際に相談すると、そこからとんとん拍子に話が進む。ホルンバーガー氏はその場ですぐに電話で話をつけ、翌日にはフランクフルトのドイツ連盟まで連れて行ってくれた。
成田氏が日本協会の要望を伝えると、ドイツ連盟のバスラック事務局長は「私が責任を持つ」と快諾したという。成田氏は「日本もドイツも、ある年齢以上の役職のあるような方は戦前からの交流で互いに親しみを持っているようでした。ドイツからサッカーを学ぼうとしていることを喜んでくれた。そういうご縁に救われましたね」と述懐する。
成田氏の寄宿舎のドアがたたかれたのは約1カ月後。ノックに応じると、小さく、頭髪の薄い男が直立不動で待っていた。
「ドイツ・サッカー連盟の推薦で参ったデットマール・クラマーと申します」
挨拶は折り目正しく、表情には「生真面目さと日本に対する敬意」が溢れていたという。その日は条件面を説明するだけで終えたが、雰囲気や態度に一目惚れに近い好印象を持った。
W杯で優勝した後のドイツ代表監督候補の1人だった
ここからクラマー氏と互いの家を行き交って交流を深める一方、日本協会に推薦するために情報を集めた。人格や手腕はどうか。誰に聞いても称賛し、悪評は皆無だった。西ドイツ代表を率いてW杯を制したヘルベルガー監督の後継者候補の1人とされ、バイスバイラー氏やシェーン氏とともに将来のドイツを担うと期待される有望株――。
とりわけ、育成に定評があった。
ケルン体育大学で指導者養成責任者を務めていたバイスバイラー氏に相談すると「是非、彼を日本に連れて行くべきだ」とまで言われた。この人しかいない。日本協会と手紙でやりとりした成田氏はクラマー氏を強く薦めた。
就任が固まるのは8月だ。日本代表の遠征直前に野津会長が渡独し、成田氏とともにクラマー氏の職場だったデュイスブルグのスポーツシューレ(学校)まで足を運んだ。